菩薩道について

川田洋一副会長


今、ご紹介があったと思いますけれども、今回はブックフェアのシンポジウムに参加ということで参りまして、昨日、午後シンポジウムに参加して参りました。そのシンポジウムには先生のメッセージも出ておりまして、その先生のメッセージを紹介しながら、私の話をそこでは致しました。


その先生のメッセージの中心点になるのが人間の持っている善質性(ぜんしつせい)ということであります。先生はそのメッセージに中で、この今人間の中からは悪性(あくせい)悪い方の性格が噴出をしておる。それは、暴力と憎悪であると、こういう風な話をされております。


そしてこの暴力と憎悪がこれが噴出をして、その暴力・憎悪の連鎖を呼び起こしているのが、現代の状況である。ところが人間の中には、憎悪と暴力に対する全く反対の善なる心がある。それが憎悪に対しては、慈悲である。あるいは、慈愛であり、暴力に対しては、非暴力である。


この慈悲と非暴力を開発をしていかなければならない。そしてこの憎悪と暴力が、人間と人間を引き裂く、あるいは、人間の中の精神と肉体を引き裂く、あるいは、人間と自然を引き裂く、という分裂とそして分断のエネルギーとして働いておる。これが経済の世界、政治の世界あるいは私たちの社会全体・人類全体を覆い起こしている、これが現代の状態であり、それを何とか善性(ぜんしょう)の方に変えていかなければならない。


今回のシンポジウムの全体の題が「分裂・分断された世界への架橋、架け橋」こういうものでありました。この架け橋のためには、政治的なもの経済的なものあるいは精神的なもの様々な次元があるわけですけど、宗教がこの架け橋をするために最も重要な役割をなし、それは何かというと非暴力と慈悲の心を出してくる。非暴力と慈悲の心というのは、悪性と反対に人々の心をつなぐ、肉体と心をつなぐ、人間と自然をつなぐ、そして融合し、そして、宇宙と融合さす、こういうエネルギーである。これを開発をしていくのが宗教の役割である。こういう先生の論調がありました。


先生のそういう風な論調を引きまして、私の方から、この善性(ぜんせい)を開発をしていくのが宗教の役割であり、本当の宗教というのは、真の宗教というのは、善性を開発する事にある、まあ、こういうことを話しました。そうすると、この聴衆者のほうからの質問の中には、その善性を開発するにはどのようにすればいいのですかという質問がある。これはまさしく菩薩道であります。


こういう風な反応をしてくれた方も聴衆の中にはいたわけでありますけれども、このパネラーの中に私は善性は信じられないという人がいました。2回も同じ事を言ってました。まあ、考えてみるとあの人には善性がないだろうなと思う人がいるかもしれません。特に政治家の中に非常に多いんですけれども。ま、しかしそれでも善性を信じるというのがあらゆる宗教の基盤です。


そのパネラーの、この政治家で御座いましたけれども、善性を私は信じないという人の中にも善性があると主張するのが私たちの仏教であります。ちょっと余談になりますけれども、この修行をしたのが皆さんよくご存知の不軽菩薩で御座いました。


なぜ不軽菩薩は迫害を受けたか、というとあらゆる人に対して、あなたの中に仏性がある、必ずあなたは菩薩道を行じて成仏しますよと言ったので、その人は、言われた人は私に中にそんなものはないと言って逆に不軽を迫害をした、まさしくこれは法華経に説かれた現代の構図と同じであります。じゃあそういう人をどうやって仏性を信じさすのか、不軽はそれを臨終の姿で示しました。


今までずーっと迫害をしていた人達が、不軽が病気になってもう臨終だろう言った時に、その臨終の姿を見て、そして、迫害をしていた人達が自分の中の仏性を信じ不軽を信じ始めた。つまりその人が、死に向かってどのように死と対面するかというその姿を見て変わっていったとあります。


経典にはその時に法華経の声が聞こえたとありますから、多分彼は法華経によってそこから臨終を更に将来に伸ばしていくわけです。死からもう一回臨終を伸ばして、そしてその間に今まで信じなかった人達が不軽を信ずるようになる、こういうことが経典に書かれております。この不軽菩薩が示している事というのは、やはり仏教者自身の体験によってどんな人でもその人の中にある仏性を引き出す事ができる、こういうことを法華経は主張したわけです。


不軽が示したのもまさしくそれは、菩薩道の一つでありました。この菩薩道ということの内容に入る前に、菩薩道にとって最も重要なこの心のもち方について申し上げたいと思います。
           
これはちょっと写真が小さいんですけども先生がこれは1997年ですね。秋に聖教新聞で会われた写真でございまして、その先生の横にいるのが、これがマーチン・セリグマンであります。心理学関係の方は良くご存知かもしれません。今売り出し中の一人でございます。


この人が楽観主義の心理学を唱えている人でございます。しかしこの写真の顔を見るとどうも楽観主義の顔をしてないんです。だけど彼は、私は楽観主義者だといっているんです。先生と聖教新聞社で対談をされた時も、先生が質問をされると一生懸命考えて、そして、一生懸命少しずつ回答が出てくるような方でございます。


先生との会見についてはちょっと後で申し上げますけども、セリグマン自体のことにつきまして先生とお会いをした時に彼が言ったのは、今までの心理学というのは、病人を精神的なものも含めてどうやって普通の状態にしてくるかというのがこれが今までの心理学であった、とこう言います。


アメリカの横田さんとのインタビューの中に出てくるんですけども、十界論を使うと大体ですね、三悪道四悪趣の人を人界・天界まで何とか引き上げようというのが、これが今までの心理学であった。ところが彼が目指す心理学というのは、その六道ではなくしてそれを越えた二乗・菩薩そこまで引き上げるための心理学、その心理学を彼は“楽観主義の心理学”というかたちでつくりだしてまいりました。


この楽観主義ということを基準にして彼は、自分の心理学を作り上げようとして来ました。じゃ楽観主義というのは何なのかというのを後でちょっと申し上げますけれども、このいつもニコニコしていつも楽しくって愉快な人は楽観主義とは言わないんです。


そうしてニコニコしている人は、たまたま今天界のような境涯・環境が続いているか、それとも苦しみを感受するだけの感受性が鈍いか、ま、どっちかだと思います。このセリグマンが先生に申し上げた訳ですけれども、この楽観主義の生き方がまさしく菩薩道なんです。究極が大聖人だということを先生はこの後展開されるわけです。