御本尊は素晴らしい。でも、題目をあげている自分はダメな存在

今一度、思い出していただきたいのは、御本尊の当体は、

私たち一人一人であるということです。


「法華初心成仏抄」という御書に、
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて、顕れ給う処を仏とは云うなり」
という、御文があります。


この御文は、私たち自身の心にそなわる妙法蓮華経を、根本から尊敬する存在としてあがめ奉り、私たちの心の中にある仏性を南無妙法蓮華経と呼び、南無妙法蓮華経と唱えることで顕れるものを仏というのだと教えられています。

また、御義口伝に、
「法華経を持ち奉るとは、我が身仏身と持つなり」
「さて仏身を持つとは、我が身の外に仏無しと持つを云うなり」


とあるとおり、私たちそれぞれが仏の当体であること、仏の本体は、私たち一人一人以外にいないことが示されており、御書の中で表現を変えて何度も、御本尊とは私たちの仏性以外の何者でもないことが説かれています。

 


唱題で向き合う曼荼羅の御本尊は、池田先生が「法華経の智慧」の見宝塔品(けんほうとうほん)の講義で、私たちの身を宝塔と見るための鏡とおっしゃっています。


どこまでも、御本尊の本体は私たちであり、掛け軸は鏡なのです。
そのため、


「唱題で向き合う曼荼羅の御本尊は素晴らしい。でも、題目をあげている自分はダメな存在」


「力のない自分は、偉大な曼荼羅の御本尊様にすがって、功徳や智慧を分けていただこう」


などと思っていると、いくらお題目をあげても、

心の奥底では妙法の当体を粗末にしていますから、福運を失います。

 


曼荼羅の御本尊があるかないかの前に、私たち一人一人の生命そのものが仏だと、心から思っているかどうかが問われています。
そして、「小乗大乗分別抄」にあるとおり、学会員であるなしを問わず、一切衆生への感謝と尊敬を抱き、自分の全てを仏法に捧げて、捨て身の貢献を誓い、願う、衆生無辺誓願度の一念が、自分の中にあるかどうかが、師弟不二の基本です。

「そんなことを言われても、曼荼羅の御本尊なしでお題目をあげたところで、願いは叶わないのでは?」
「何年も曼荼羅の御本尊なしで、お題目をあげた人なんて見たことない」


と、言う方もいらっしゃるでしょう。
その疑問には、私自身の体験でお応えします。

 


私は学会一世で、入会を希望しても家族の了承が得られず、入会までの十年間は、曼荼羅の御本尊がない状態でお題目をあげました。
入会した後も、仕事の関係で半年以上、曼荼羅の御本尊を安置することができない状況で、お題目をあげました。


当時の私は御書を知らないため、自身が仏の当体であることも、仏法のために捨て身で戦うことを誓う、衆生無辺誓願度のことも知らず、ただひたすらに、自分の悩みの解決を、朝目覚めてから、夜の眠りにつくその瞬間まで、何かをしながらでも必死に、胸中でお題目をあげました。
その結果のひとつとして、家族の生活に必要な、一千万円を超える金額を得ることができました。

この仏法を信じ、実践しようとする方はぜひ、御書のとおりに、

私たちが仏の当体であるとの自覚に立ち、

牧口先生、戸田先生、池田先生と同様に、

何があっても一切衆生救済のために、

自分の生命を丸ごと仏法に捧げる誓願から、

共に始めていきましょう。