地涌の菩薩と動執生疑
【地涌の菩薩と動執生疑】1/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時11分40秒
本門の時代は何から事が起こり、始まるのか――ここから考えていきたいと思います。
法華経二十八品は、迹門(前半十四品)と本門(後半十四品)に立て分けられることは、皆さんよくご存知だと思います。
そのなかで法華経の本門は「従地涌出品第十五(※次から涌出品と呼ぶ」」からですが、前半・迹門の見宝塔品第十一では、
釈尊より仏滅後の弘通に立ち上がるべきこと(三箇の勅宣)を促され、仏弟子はそれぞれ弘通の決意を述べていきます。
そして勧持品第十三に至り、未来の弘通の呼びかけに声聞の弟子たちが弘教を誓い、
薬王菩薩が「二十行の偈」を述べ決意表明をします。
ところが釈尊は菩薩たちの決意表明を完全に無視――。
さらに本門の涌出品に入って、多くの菩薩たちが未来の弘通の決意を述べますが、
釈尊はついに「止めよ、善男子よ。汝等が此の経を護持せんことをもちいじ」と明確に否定し、弟子たちの表明を完全に退けました。
これが本門の仏の第一声の言葉です。
ここで少し考えてみましよう。そもそも仏弟子たちの未来弘通の決意表明は、
釈尊から法華経弘通に立ち上がるべきであると促されたからこそ決意を表明したのです。
しかし実際に弘通を表明すると、釈尊はその申し出を退けたばかりか明確に否定した――。
この一連の師匠と弟子の対話を見ていると、常識では考えられないことが法華経には描かれています。
いったい法華経の作成者たちは、どういう意図でこのように書き残す必要があったのでしょうか。
それは彼らが仏滅後の法華弘通の主体者ではないことを示すものだからです。
法華経本門の始まり(涌出品)は、仏滅後に法華経を弘通する人たちは別に存在するとして、
六万恒河沙という無数の大菩薩が大地の下から涌出するという展開になっています。
いわゆる地涌の菩薩の登場です。
【地涌の菩薩と動執生疑】2/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時12分30秒
この地涌の菩薩が登場し、地涌の菩薩のリーダーである四菩薩と釈尊の対話を聞いて、
虚空会にいた仏弟子たちは動揺し、疑いを起こします。
つまり、本門の開幕はこの「動執生疑」から始まったといえます。
池田先生は「動執生疑とは、それまでの信念が大きく揺らぐことです。いわば既成の世界観が根底から打ち破られるのです。
人々が安住している価値観を劇的に打ち壊すことによって、釈尊の本地――真実の境涯が説き明かされていく。
・・・・それは深くとらえると、人類の生命観、人生観、世界観、社会観を一変させる精神革命なのです。
この涌出品と寿量品に秘められている意義を掘り下げていくことは、岐路に立つ現代文明の病根に抜本的な治療を加えることになる」
(法華経の智慧二〇七頁)と述べています。
歴史を紐解けば、鎌倉幕府に大聖人が立正安国論を提出したことによって、
当時の権力者や既成宗教の僧侶たちに動執生疑が巻き起こりました。
日本に仏教が伝来して七百年、仏教に対する当時の人々が持っていた価値観を
大聖人が劇的に打ち壊すことによって、大聖人の本地――真実の境涯が説き明かされたのです。
それからさらに七百年、創価学会が誕生し創価三代の師匠が仏教界と世界の民衆に動執生疑を巻き起こし、
人類の生命観、人生観、世界観、社会観を一変させる「精神革命」の先駆を成し遂げます。
そして日蓮大聖人も創価三代の師匠も、全民衆に動執生疑を巻き起こし、それがためにあらゆる迫害に遭いました。
考えてみれば、大聖人はもちろんのこと
三代会長も迫害に遭うことによって、その時すでに発迹顕本していたのだと思います。
あとはその後継の弟子たちが内外問わず、自らの行動で動執生疑を起こす戦いを実践し、
迫害を通して自分自身の発迹顕本を断行するしかないと思うのです。
それがあってこそ創価学会の発迹顕本も成し遂げられると考えます。
ただ誤解してほしくないのは、大聖人や三代会長が一切衆生に起こした動執生疑は
「生命の本質とは何か」「人間のための宗教とはどうあるべきか」を世に問い、
間違った権威権力者を諌めた結果として迫害されたということであって、
決して迫害されることを弟子に勧め、奨励したわけではありません。
迫害されるために正義を訴えたのではなく、正義を訴え貫いた結果、迫害されたのです。
【地涌の菩薩と動執生疑】3/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時13分15秒
さて、本門の涌出品に説かれる地涌の菩薩の人数や姿は、
今までの菩薩の範疇を遥かに越えたものでした。
地涌の菩薩は各自が六万恒河沙の眷属を率いています。その数はまさに「無量無辺」といっても言いでしょう。
また、地涌の菩薩の姿は極めて偉大な姿で描かれています。
たとえば、地涌の菩薩の身体は皆金色で三十二相(仏が具える理想的特長)を具え、
無量の光を放っていると説かれています。
三十二相は本来、仏や転輪聖王が具える徳で、通常の菩薩が持つものではありません。
それにもかかわらず、地涌の菩薩は三十二相を具えていると説いています。
このことから釈尊の滅後に法華弘通の使命を担う地涌の菩薩は、仏から退けられた従来の菩薩とは
全く次元が違う存在であり、法華経の涌出品から嘱累品までしか登場しない極めて特別な存在なのです。
さらに
「志念力堅固にして、常に智慧を勤求し、種種の妙法を説いて、其の心に畏るる所無し」(法華経四八七頁)、
「善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること、蓮華の水に在るが如し」(法華経四九二頁)、
「難問答に巧みにして、其の心畏るる所無く、忍辱の心決定し、端正にして威徳有り」(法華経四九三頁)
と地涌の菩薩の特徴が描かれています。
仏を目前にありありと見ることができない仏滅後の時代に、
しかも仏の在世の時以上に激しい迫害が起こるとされる悪世に、
法華経の真価を世界に宣揚していく無数の弘通者が必ず出現する――。
法華経の作成者は宗教的確信のうえから、遠い未来の担い手を「地涌の菩薩」と表現し、
必ず出現することを予言したのです。
このあと、
地涌の菩薩の代表たる四人(上行・無辺行・浄行・安立行)のリーダーたちが、民衆救済について釈尊と対話をします。
その光景を目の当たりにして、一番驚いたのは法華経の会座にいた弟子たちです。
その弟子たちの驚きを代表して、弥勒菩薩が釈尊に地涌の菩薩の因縁を説くように要請します。
これが有名な「弥勒の疑請(ぎしょう)」です。
【地涌の菩薩と動執生疑】4/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時13分55秒
池田先生は
「この弥勒の《大いなる問い》が、釈尊が寿量品という真髄の教えを説くきっかけになっている。
質問が大事です。だから釈尊は『素晴らしい、素晴らしい。
弥勒よ、あなたは仏にそのような大事なことを質問した』と称えた」(法華経の智慧二一五頁)と述べています。
弥勒菩薩の問いとは
「この無量の菩薩(地涌の菩薩)たちは、昔から今まで見たことがありません。世尊よ、どうかお話ください。
彼らはどこから来たのでしょうか。何の因縁によって集まったのでしょうか」
という質問です。
この弥勒の質問に対して、池田先生は
「釈尊に縁の深い菩薩や声聞たちのなかでも、弥勒が質問したことに深い意味がある」(同頁)と述べています。
弥勒菩薩というのは釈尊滅後五十六億七千万年の時、この世に生まれて弥勒仏となり、
釈尊の地位を継承する「一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩」として釈尊の次に仏になるとされた菩薩であり、
釈尊の高弟の中の高弟で広く民衆の間で信仰されてきました。
つまり、弥勒菩薩は文殊菩薩と並んで仏を除いては最高の尊敬を受ける存在でもあったのです。
法華経の作成者がこのなかで、弥勒菩薩に地涌の菩薩の因縁を質問させているのは、
従来の弥勒信仰を打ち破る狙いがあったと思われます。
ではなぜ、法華経の作成者は弥勒信仰を打ち破る必要があったのでしようか。
【地涌の菩薩と動執生疑】5/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)09時14分37秒
これはあくまでも想像の域を出ませんが、
おそらく法華経が作成された当時の時代様相は、根本の師匠である釈尊を忘れて弥勒信仰が盛んに行われ、
本来、中心におくべき釈尊の精神(法)が薄れ、失われていった過程にあったのではないかと思うのです。
そこで法華経の作成者はもう一度「師匠根本・依法不依人」の原点にもどすために、
あえて弥勒菩薩に質問をさせることによって弥勒信仰を打ち破ろうとしたのではないかと思います。
私たちで言えば、
創価学会の永遠の指導者は創価三代の会長(師匠根本)であり、御書根本(依法不依人)です。
池田先生を中心にして弟子は皆「同心円(中心を共有)」で結ばれています。
当然ですが、成仏に上中下はあっても池田先生の弟子に上下はありません。
たとえ創価学会の歴代会長といえども、御書を離れて、三代会長の指導を離れて、仏法の正義はありません。
事実として日興上人の
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(一六一八頁)を身で読んだからこそ、
牧口先生は獄死され、戸田先生は牢獄に入り登山停止処分にされ、池田先生は宗門から破門されたのです。
もし「現会長の指導はイコール池田先生の指導である」という組織信仰がまかり通れば、
創価学会といえども日顕宗と同じように「現法主は現代の日蓮大聖人である」という邪義と同列になります。
このような組織信仰に陥らないために、常に「御書根本・師匠根本」の原点に返る戦いが必要なのだと思います。
この日興上人の厳命は、
師匠の遺命である広宣流布達成のためには「師匠根本・依法不依人で行け!」との永遠の指針であると捉えたい。
・・・・つづく
【地涌の菩薩と動執生疑】6/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時44分8秒
さて、弥勒菩薩の問いに対して釈尊は何と答えたのでしょうか。
それは「我れは久遠よりこのかた、是れらの衆を教化せり」(法華経四六七頁)と表明しました。
つまり釈尊は遠い昔から、この娑婆世界でこれら地涌の菩薩たちを
自分が教化してきたのだと明かしたのです。
この言葉は、釈尊が久遠以来の仏であることを表明した重大な言葉であり、
天台はこれを「略開近顕遠」と呼びました。
この答えを聞いた時、弥勒菩薩や無数の菩薩たちは心に疑惑を生じ、
いまだかつてない怪しみに陥ったと涌出品には記されています。
弥勒菩薩や無数の菩薩たちにしてみれば、この疑惑は当然といえます。
弥勒をはじめ他の菩薩たちは皆、それまで釈尊は菩提樹の下で成道し、
歴劫修行の末に初めて今世で成仏したと思っていました。
それがこれまでの経典の前提だったのです。
しかし法華経本門の最初に、この前提をくつがえし、釈尊の本質は久遠以来の仏であることを示したのです。
この「久遠以来の仏」という仏身観を明かすのが寿量品の根本テーマなのですが、
本門に入る涌出品からすでにこのテーマが提示されているわけです。
いままで前提としていたものが崩れ、
しかも誰も見たことがない荘厳に光り輝く(師より偉大に見える)地涌の菩薩が、
自分たちの眼前に無数にいる――この衝撃と驚きが「動執生疑」です。
地涌の菩薩が久遠から教化してきた釈尊の弟子であるといっても、
法華経の会座に集った大衆は全く反応せず、それを理解しようともしませんでした。
そればかりか釈尊は今世で初めて成道した仏であるという既成観念に染まりきった人々は
「釈尊が菩提樹の下で成道してから法華経を説くまでわずか四十余年しか経っていないのに、
どうしてこのわずかな時間に無数の菩薩(地涌)を教化することが出来るのか」
と疑念に思うのも無理はありません。
【地涌の菩薩と動執生疑】7/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時44分43秒
大聖人も
「此の疑、第一の疑なるべし・・・仏・此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかるべし」
(御書二一三頁)と述べられています。
つまり、仏がこの疑問を明らかにされないならば、仏の一生の教えはアブクと同じであり、
一切衆生は疑いの網にからまってしまうだろうという意味です。
いってみれば、一切衆生の成仏がかかった根本的な疑問です。
大衆は釈尊の言葉を受け止められず、弥勒菩薩も再度
「世の人が到底信じられることではありません」と言います。
その理由は、師である釈尊よりも弟子とされる地涌の菩薩の方が偉大に見えたからです。
涌出品には釈尊が地涌の菩薩を自分の弟子であるとしたことは、
あたかも二十五歳の青年が百歳の老人を指して我が子であると言ったようなもので、
誰にとっても受け入れがたいことであると述べています。
師である釈尊よりも地涌の菩薩の方がさらに偉大に見えるというのは、確かに「謎」めいた教説です。
普通ならば、菩薩とは成仏を目指して修行している存在です。
それにもかかわらず、地涌の菩薩は仏(釈尊)よりも尊貴であるとし、
師匠に導かれる弟子が師匠よりも偉大であるというのは通常は考えられないことです。
この「謎」を解き明かすことが、実は地涌の菩薩の本義を解明することになり、
法華経が何を言おうとした経典なのかを知る重要な手がかりになるのではないかと思います。
今度はその謎を考えていきたいと思います。
【地涌の菩薩と動執生疑】8/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時45分20秒
釈迦仏より尊貴な菩薩、師匠よりも偉大な弟子――これは何を意味しているのでしょうか。
天台大師は法華文句のなかで地涌の菩薩を指して「皆是れ古仏なり」(国訳一切経四〇六頁)と述べています。
つまり、地涌の菩薩は単なる菩薩ではなく、その本質は仏であるということです。
確かに地涌の菩薩は「菩薩」として登場していますが、涌出品で表現された地涌の菩薩の実体は、
菩薩の範疇を超えた存在で描かれ、その本質は仏であることを暗示しているようにも思えます。
また、地涌の菩薩が娑婆世界の下の虚空に住していたとされることも、
彼らが生命の根底である第九識の仏界に立脚し、すでに仏の境涯にあることを象徴していると解釈できるし、
地涌の菩薩が仏の特徴である三十二相を具えていることも、その本質が仏であることを示しているとも解釈できます。
要するに、
地涌の菩薩が菩薩として法華経の会座に登場するのは、
あくまでも外に現れた姿に過ぎず、その本地(内証)はすでに妙法を所持している仏だということです。
釈尊が次の寿量品で久遠の昔に成道した仏であることを示すためには、
前の涌出品で地涌の菩薩が釈尊によって教化された弟子であるという構成をとらざるを得ず、
釈尊が無数の大菩薩たる地涌の菩薩を教化したことによって、
釈尊が今世で成道した仏ではないことを示すことができます。
地涌の菩薩の本地が仏であることを明からさまに示せないので、
それを暗黙のうちに悟らせるために、仏よりも尊貴な「菩薩」という表現をとったのではないかと思います。
そこに暗喩を駆使した巧みな法華経作成者の手法を見ることができるのです。
【地涌の菩薩と動執生疑】9/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時45分59秒
さらに法華経の作成者が仏(地涌)を菩薩として登場させた意図(真意)は、
外には菩薩の姿をとる仏――「菩薩仏」であるということです。
つまり、それまでの仏といえば釈尊を含めて色相荘厳の姿で登場し、
仏果を成就した「完成者・到達者」として描かれていました。
しかし、菩薩仏は完成者ではなく、未完成の姿をとっています。
それでいて妙法とともに生きる仏の境涯に住しています。
言い換えれば、未完成を含んだ完成、完成を含んだ未完成というこれまでにない新しい種類の仏です。
これは今まで語られてきた「仏」の概念の大変革をもたらします。
日蓮仏法で表現すれば、完成者、到達者の仏は仏果を成就した「本果の仏」。
それに対して地涌の菩薩として登場した菩薩仏は「本因の仏」といえるのではないかと思います。
考えてみれば、
凡夫の成仏といっても現実の人間が「完成者・到達者」として仏になることはあり得ません。
生きている限り、生命は揺れ動くものであり、完成してこれ以上やることがないということはあり得えない。
大聖人もその胸中には根源の法の悟りがあり、その意味では到達者といえますが、
その生命の内部には悟りを脅かそうとする働きとの闘争は絶えず続けられていました。
たとえば
「日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王、我が身に入らんとするに兼ての用心深ければ身によせつけず」
(一三四〇頁)とある通り、常に魔と戦い続けています。
これは大聖人自身も不断の魔との闘争を止めたならば、
仏の境涯を維持することができなかったのではないかとも解釈できます。
つまり、大聖人も完成の中に未完成を含んだ存在であり、地涌の菩薩とはそういう立場なのだと思います。
【地涌の菩薩と動執生疑】10/10 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2016年 5月18日(水)16時46分37秒
経典に説かれる三十二相を具えた色相荘厳の仏は、最終的に到達点に達した完成者ですが、
それは現実に存在するものではなく、実際の人間が成し得るものでもありません。
言い換えれば、それは生命の働きを象徴的に示すために方便として説かれた架空の存在であり、
現実世界で実在する仏ではないということです。
実際に存在する仏とは、
妙法を受持した現実の人間――つまり未完成の凡夫の生命の中に仏の完成を秘めた人間以外にはあり得ないということです。
しかも胸中の光り輝く仏界を維持し続けるためには、悪との闘争が必要不可欠なのです。
悪と戦わない人間には仏界の生命は涌現しないと思うし、地涌の菩薩の本質でもないと思います。
事実において、創価三代の師匠は人間を不幸にする権威権力とは「断固戦え!」と叫んでいるし、
何より師匠が先頭に立ってその闘争を展開してきました。
こう考えていくと、今試されているのは弟子の方なのではないかと思います。
後継の弟子がどうするのか――仏はじっと見ています。それが師匠の心だと思う。
ともあれ、涌出品は地涌の菩薩が釈尊の弟子でありながら、
仏よりも尊貴な姿をとっているという「謎」を提示したまま終わっています。
そして、無量無辺の菩薩を教化した仏は今世で初めて成道した仏ではなく、
久遠の昔以来、仏であり続けている存在であることを寿量品で明かしました。
法華経という経典は、法華経が成立してインド・中国で弘められた時代の人々のために
作成されたものではなく、遥かな未来の人々のために作成されたものであることを法華経自体が表明しているのです。
ではその未来とはいつの時代なのかというと、
白法が隠没し、道理が通らず、力の論理が横行する最悪の悪世末法です。
この時代を生き抜いた大聖人の仏眼は「三災七難」が起きる原因を明確に捉え具体的に述べています。
それを最後に記して終わります。
――今の世は闘諍堅固・白法隠没なる上、悪国・悪王・悪臣・悪民のみ有りて正法を背きて、
邪法・邪師を崇重すれば、国土に悪鬼乱れ入りて三災七難・盛に起れり(御書五〇一頁)――。
おわり
宿坊の掲示板より
ゆう (日曜日, 17 7月 2016 15:48)
細かい質問で恐縮です。成仏の上中下についてお教え頂きたいなとぞんじます。