大聖人の世の救い方

大聖人の世の救い方  投稿者:月夜の散歩  投稿日:2015年12月28日(月)13時11分44秒   

  大聖人の「立正安国論」の正法を立てて国を案ずるの必要性が今ほど望まれている時はないでしょう。

世界が真実の生命尊厳思想の喪失による人身の荒廃、その依正不二としての環境の破壊、生命間の関係機能不全を発症している今こそ大聖人が

この問題をどういう風に乗り切るべきかと言われていることに耳を傾けるべきでしょう。

 

私はこのような3つの観点を大聖人は言われていると思います。

 

1、宗教には高低浅深があり、教えが高く、深い教えにつかないと仏界は全開しないし宿命転換はできない。

  誤った教えにつくと地獄(苦しみの人生)に堕ちてしまう。

  国といっても人の集まりである以上、その人々が正しい法に則った生活を送る事が「依正不二」の原理からして安らかな国を建てることになる。

  よって「正しい法を立てる事によって国を安んじる」事を目的にするべきであり、何が正しいのかを判定するのがまず急務である。

 

浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり(報恩抄 310ページ)

 

  その深い教えとは、「正しく、完璧な三世の因果を説く」教えである。

 

聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、(聖人知三世事)

 

しかし、では何が深い究極の教えなのか、、ここを間違えるととんでもない事になる。

交通ルールを間違って覚えて車を運転する様なものです。事故の元です。他人の生命をも奪う事になりかねません。

それには開目抄の中にある宗教の比較のものさしである五重の相対を勉強する事が必須です。

五重の相対は生命の因果をどの宗教がどこまで深く追求しているかで宗教の高低浅深を論じているものです。

 

時に私達は、自分では高みに登っているつもりが凡夫の頭の域を出ない二乗の境涯に固執してしまっているという事があります。

例えば善き外道は、三世の因果をかなり深く知っており自分では悟ったつもりになっていますが、究極の因果論である一念三千のレベルまでには到達していないので、最終的には天に昇って地上に

帰ろうとしない様な態度の外道は、逆に真っ逆さまに地獄に落ちると御書に書かれています。

 

其の見の深きこと巧みなるさま儒家には.にるべくもなし、或は過去・二生・三生.乃至七生・八万劫を照見 し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・

或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃

と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より 返つて三悪道に堕つ 一人として天に留るものなし而れども天を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに

 

此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、

但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば 傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して 或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、 所謂周の武王には

五老きたりつかえ 後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、 而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、

 

外典・外道の四聖.三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども 実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、

彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし

   開目抄 上より

 

これを読んで解る様に、いかに三世の因果、生命の永遠、輪廻などが科学で証明できないとしても、このポイントを外して大聖人の仏法はありません。

これが全てだといっても過言では無いほどの大事であり、それを話す事を過小評価する事は、もうその時点で謗法に陥る危険を孕んでいます。

 

仏法はその教えの高低浅深を、文証、理証、現証で判断します。

 

文証とは、いたずらに今日や明日、誰かが好きな事を言い出す事に信心を置く事はできない訳で、仏の教えを確かに再生している確かな文章に基づくという事です。

 

理証とは、例えば全ての生き物の違いや環境の違いなどはどこからくるのか、神が決めたのか、それとも偶然なのかを深く問い詰めた時、自然の中に不思議な因果の法則があり

すべての現象はその法則に基づいて縁起のきっかけを得て起きていると見ると、全ての現象はつじつまがあう、一念三千の法則は理屈に合うという事です。

 

現証とは、ではその信心をもって修行して確かな幸福観が確立できるのかという事です。

現象はただの思い込みや相対の世界の功徳だけではなく、心の深い所からの安心感、幸福観をしみじみと味わえ、何があっても強く生きていけるという不動の確信に立てる事です。

例え理証が科学で証明できないにしても大聖人の教えを「以信代慧」として信心していく中に、又それを解ろうと日々努力して勉強する中にふつふつと湧き上がる充足感を私は何ものにも変えがたい

宝物にしています。

 

言うまでもない事ですが大聖人の仏法の修行は、信、行、学です。

行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

 諸法実相抄P1361

そしてその「学」の中で一番大切なのが生命の本質を説いている一念三千の理論(理)と、更にその理論を、相、性、体の完璧な人法一箇の仏の生命として具現化した、事の一念三千の御本尊

がどういうものであるのかを知る事の努力です。其の努力の中に「信」が深くなり、自行化他の「行」も進みます。

 

御本尊は一念三千の法理が土台です。

 

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世のならいそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」草木成仏口決 p1339

 

一念三千の法理とは私達の生命の真実です。

そしてその「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」が「御本尊」です。つまり御本尊とは私達の一念三千の生命の鏡です。

御本尊の中に一念三千の法理が生きていますし、一念三千の法理を信じる事が「御本尊」を信じる事になり、又私達の生命の真実の姿を信じることになります。

なかんずく、凡夫の私達の生命そのままの姿で今ここで、仏界の生命を開くことができるという法理がここでこそ可能になります。

 

 

十如是の事 仰に云く此の十如是は法華経の眼目・一切経の惣要たり、されば此の十如是を開覚しぬれば諸法に於て迷悟無く、実相に於て染浄無し、、、

御講聞書 p816

 

一念三千の中で、特に十如是は仏と凡夫が生命の実相において同じ機能を持っているという事を説いていて、法華経以前の教えである、仏とは輪廻や宿業を超越している存在という

教えから180度方向変換しています。

しかもその機能自体は、過去、現在、未来に渡って永遠に変化することはない因果律という法則に則って、全ての生命は瞬間瞬間をしかも永遠に自己の生命を生きていくという事です。

 

相(仮)、性(空)、体(中)という三つの側面を持った円融の三諦である私達の生命は、十界のいずれかの境涯にマッチする、因(内因)、縁(依報であるきっかけとなるもの)、

果(結果はすでに刻まれているが、まだ表に出ていない状態)、報(外に現れる報い)、という因果を瞬間瞬間創造しながら生きています。

又、其のエネルギー(力)を外界に作用して(作)、内外呼応し、依正不二の生命体として一瞬一瞬を生きています。

更にその個の生命は宇宙の中で自分しかないという独自性(三世間)を保ちながら一念三千の当体として生きています。

 

この一瞬の生命の中で一つの生命体がおりなすドラマが、その一つの生命体として一貫している事を本末究境等と言います。

そして、最終的に、最後の 報(外に現れる報い)が、一番最初の 相(仮ー顕在)に反映し、こうして生命はある意味、一瞬一瞬ふたたび新しい如是相に生まれ変わる事を

輪廻といいます。ですから輪廻は一瞬の生命体の中でも起きており、又大切な事は、この法則は死をもってしても途切れる事はなく、永遠の法則だという事です。

 

この原理が説かれた事によって、仏とは輪廻や宿業を超越した超人ではなく、凡夫の身の私達と同じ一念三千の当体の生命でありながら、この一念三千という究極の真理を体得した人だという真実が

顕わされました。

そして大聖人は、更にこの普遍の一念三千という究極の真理に、相(法の顕在化)を与えました。これが「御本尊」でありそれを可能にした事によって私達は大聖人を「御本仏」と呼びます。

 

この原理からいうと、御本尊事態が草木にもある仏界を引き出して開眼したものであり、そのまま仏身になります。

私達の体と同じ様にいつかは朽ちますが再生可能という意味で永遠です。

 

私達は日常生活の中で、自分のいる環境への判断、対応の差によって、一瞬一瞬十界の内のいずれかの因果を作っています。

つまり善きにつけ、悪しきにつけ私達は環境との相互作用によって善悪の業をつくっています。

その環境の中で最高のもの、それが仏身として顕わされた御本尊です。

この形に顕われた仏の生命の「御本尊」への(信)と、御本尊へ題目を唱える、身、口、意の仏界の三業の集積(自行)と 仏法理解を深めようとする(学)があればその内に自然に他人にも語りたくなります(化他)。

この御本尊との相互作用が、知らず知らず、最高の境涯である仏界の業を築いているのです。

御本尊の仏力、法力が私達の信力、行力に呼応します。

心配はいりません。体感しようと努力しなくてもそれと同じ状態になれるように大聖人は「御本尊」を顕わされたのです。

 

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、、自然にいたるとおおせです。

 

体感しようと努力しなければいけないのは、禅や天台仏法です。

 

末代幼稚の頸(くび)にかけさしめたもう

 

大聖人がすでに、私達末代幼稚の頸(くび)に御本尊をかけてくださっています。

後は正しい 信、行、学 あるのみです。

 

 

如来滅後五五百歳始観心本尊抄

 

天晴れぬれば、地明らかなり。

法華を識る者は、世法を得(う)べきか。

一念三千を識(し)らざる者には仏、大慈悲を起し、五字の内に此の珠をつつみ、末代幼稚の頸(くび)にかけさしめたもう。

四大菩薩の此の人を守護したまわんこと、大公周公の成王(せいおう)を摂扶(しょうぶ)し、四皓(しこう)が恵帝(けいてい)に侍奉(じぶ)せしに異ならざるものなり。

 

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、 我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん

つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、

  開目抄

 

つづく

 

宿坊の掲示板より