舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】1/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時01分59秒

  日蓮仏法を信仰し、日蓮教学を真剣に学んでいこうと志ざす人には、

大なり小なり、そこにいたる道程と動機があるものです。

 

ある日、もっとも尊敬する先輩から自身の体験を通して、その道程と動機を教えて頂いたことがありました。

 

先輩は言います。

「わが家は親の代から学会員で、自分も人生の苦難に何度も合ったが、

すべて信心を奮い起こして挑戦し、乗り越えてきた。そんな矢先に待望の子供が障害者として生まれた。

 

この日以来、日蓮仏法を真剣に学び、人生をかけて子供の幸福(成仏)を思索してきた。

そして答えが見つかった。今ならはっきりわかる。結局、教学は人生の苦難のなかでしか深まらない」と。

 

先輩の体験を聞いた時に、本当にこの先輩は教学を学び終え、それを実践に移している偉大な人だなと感動したものです。

 

というのは、グリグリの身内にも重度の障害者がいたからです。

一口に障害者といっても、いろんな人がいます。

 

目が見えない盲目の人、耳が聞こえず、はっきり言葉として話せない人、

背の低い人から足の不自由な人、そして背骨が弓状に盛り上がり湾曲した人等々――。

 

詳細は書けませんが、身内の障害者は目と耳と脳は正常なのですが、後はすべてダメなのです。

身体を自分で自由に動かすことが出来ず、常にオシメを着用し、食事も一人で食すことが不可能なので、

身体を横にして誰かがスプンで口に運ぶしか食べる方法がない。

 

そして当然、しゃべることが出来ないので文字盤を指で押さえて自分の意思を伝えます。

健常者ならば、十秒で人に伝えられることも身内の障害者は五分十分かかります。

 

手を自由に動かせないながらも必死で文字盤を押さえて意思を伝える方も、

それを確認しながら必死で理解しようとする方も共に根気のいる作業です。

 

グリグリが教学を極めようと決意したきっかけの一つは、そんな障害者が身内にいたからかもしれません。

 

その身内も学会員で、親は重度障害児の子を小さい頃から厳しく育てていました。

正確に南無妙法蓮華経と発音できない子供をご本尊の前に座らせ

 

「いいかい、子供よ、お前は口と身体はダメだが、目と耳は正常だ。

だから口で題目を唱えなくてもいいから、しっかりその目でご本尊を見て、心で題目を唱えなさい。

そして、もしも教学の話をしてくれる人が現れたら、しっかりその耳で聞きなさい」――こう言い聞かせていました。

 

そんな子供も成人し、今では電気式車イスで障害者が集まる作業所に通い仕事をしています。

親は亡くなる前の枕元でグリグリにこう言いました。

 

「子供に仏法の偉大さを話してやってくれ、たのむ・・・・」と。

 

まもなく親は霊山に旅立ちました。先輩の体験を聞いて、そんなことを思い出したのです。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】2/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時02分40秒

  さて、遠い昔のインドで何不自由なく暮らしていた一国の王子(釈尊)が、

王宮の門の外で老人や病人、また死人や修行者に出会い、人生の生老病死を目の当たりにして

「人生の苦悩」に目を開き、出家を決意したという故事があります。(四門出遊〈しもんしゅつゆう〉)。

 

釈尊は人間の苦悩の解決のために、修行に励み、

わが身の振舞いを通して生老病死の解決法を示し切り、尊い生涯を終えました。

そしてその釈尊の「心」を弟子たちが法華経にまとめて後世に伝え残しました。

 

末法に出現した日蓮大聖人はその法華経をさらに昇華させた形で

「南無妙法蓮華経(ご本尊)」と表現を変え〝万人成仏〟の方途を示したのです。

 

これらのことから、すべての生命に貫かれているものが法華経だとすれば、

あとは何によって、その門に入るかという問題が残ります。

 

これを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

 

その前に、智慧第一と言われた「舎利弗」と愚鈍の代表格である「修利槃特」の

共通点は何であったのかを見ていきたいと思います・・・・と、

 

ここまで書き終えた時に、妻から反論がありました。

 

「ちょっと待ってよ、舎利弗と修利槃特に共通しているのは成仏した事だけじゃない。

それ以外に共通したところなんて何があるの。あとは全部、正反対じゃないの」と。

 

妻の言ったことをまとめると、

 

①舎利弗は智慧第一、修利槃特は愚鈍第一

②舎利弗に対して師匠は厳しい態度だった、修利槃特に対して師匠はやさしい態度だった。

③舎利弗は他の弟子からも人気があった、修利槃特は他の弟子からはバカにされた。

 

確かに妻の言う通り、成仏した以外は正反対だったかも知れません。

 

しかし、結論を急がず、もう少しじっくり考えていきたいと思います。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】3/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時03分22秒

  法華経「方便品第二」の対告衆は舎利弗ですが、

確かに師匠は舎利弗に対して厳しい態度で接しています。

 

その内容を要約すると

 

「舎利弗よ、よく聞け。仏の智慧は甚深無量でいまだかつて聞いたことのない無量無辺の未曾有の法である。

仏の智慧を理解するのは難解で、智慧の門に入るのは難しい。一切の二乗(声聞・縁覚)が知ることのできないものである」と、

 

仏の境涯をさんざん賛嘆したのち、二乗の代表である舎利弗を徹底的に叱り飛ばしています。

 

これまでも釈尊は、三乗(声聞・縁覚・菩薩)の人は皆、もろもろの執着を離れて、

もう世の中はこれでいいのだと思いこんでいる。三乗の境涯のままでいいのだと満足している。

 

しかし、違うのだ。

 

あらゆる仏が出現するのは、君たち三乗や万人がもともと持っている仏知見を開いてやろう、

悟らしてやろう、そしてそれを示して仏の境涯に入らしてやろう(開示悟入)として生まれてきたのだ。

 

だからまず仏の智慧を賛嘆し、それから君たちを導くのだ。

君たちみたいな者が何億人集まっても仏の智慧はわからない――。

 

そして「止めよ、舎利弗よ。もう法は説かない。なぜなら仏が成就したのは

稀有にして難解な第一の法であり、ただ仏と仏だけが『諸法の実相』を究め尽くしているからである」

 

と説きます。

 

これを聞いて舎利弗はやっと理解できたのです。

舎利弗は「師匠よ、やっとわかりました。そんなに偉大な法があるのですから、私はその偉大な法を信じます」と。

 

これを以信得入(いしんとくにゅう)、〝信をもって入ることを得たり〟といいます。

 

舎利弗と修利槃特の最大の共通点は「信心」です。

信ずる心をもっていたがゆえに、成仏することができたのです。

 

そしてそれは〝信ずる心〟をもって入らなければ、

法華経の心を会得することは絶対にできないということでもあるのです。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】4/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時03分58秒

  では、仏と仏だけが知る「諸法実相」とは何でしょうか。

 

結論から言えば、諸法実相とは十如是のことです。

つまり「いわゆる諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本、末究竟等なり」です。

 

この十如是の文は、ちょっとむずかしい言葉ですが「略開三顕一」といいます。

これは三乗(声聞・縁覚・菩薩)を破折して、一仏乗をあらわすという意味です。

 

もっとわかりやすく言えば、人生の目的は幸福になるためにあるのですが、

 

それは金持ちになる事である、社会的名声を得る事である、世界一周旅行に行く事である、

結婚して家庭を持つ事である、美人になる事である、健康になることである等々いろいろありますが、

 

それは小さな目的観に立った三乗を求める衆生の姿なのだと師匠は言います。

 

そうではなく、本当の人生の目的は、ご本尊様を信じ、南無妙法蓮華経を信じなさい。

そうすれば、絶対に崩れない幸福な自分になれる。これが人生の究極の目的です――略開三顕一とは、こういう意味です。

 

こんなこと言われても誰だってわかりませんし、理解できません。

 

しかし、師匠がそう説いた時、舎利弗だけが師匠の言葉を理解したのです。

いや、理解したというよりもその言葉を〝信じた〟というべきかも知れません。

 

戸田先生はこのことを通して、幸福には「相対的幸福境涯」と「絶対的幸福境涯」の二つがあると表現しました。

 

何があろうが、何が起ころうが、何物にも侵されず、わが身の心に幸せを感じ、

生きていること自体が幸せである――そう言い切れる自分になるためには、ご本尊様を信じ、

行じていくところに人生の目的があり、本当の幸福を勝ち取る源泉があるのです。

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】5/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時04分41秒

  話をもどします。

 

仏と仏だけが知る諸法実相(十如是)を簡単に説明すると、

 

初めの三如是(相・性・体)は、生命の実体そのものを示しており、

あとの七如是(力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)は、

生命の実体(相・性・体)がどのような運動をするかを示したものといえます。

 

つまり「力・作」は生命の〝発動や広がり〟を示し

「因・縁・果・報」は生命の〝流れ〟を鋭くとらえていると解釈することも可能です。

 

そして「本末究竟等」はその生命の法則を総括している〝妙なる法〟ともいえます。

 

要するに、この十如是という実相なくして生命というものはなく、

生命の実体(相・性・体)が明確でなければ観念論です。

 

仏法は実相に即した生命論であり、日蓮仏法はその生命を解明して、

万人が成仏する方途をものの見事に解き明かした大生命哲学なのです。

 

では、仏と仏だけが知る諸法実相(十如是)を通して、冒頭に挙げた

南無妙法蓮華経を正確に発音できない重度障害者はどうやって成仏するのか、

 

今度はそれを考えていきたいと思います。

 

同じ人間として生まれても、人にはさまざまな身体的差別があります。

 

大聖人は「人間に生まれる〝因〟は分かったが、同じように五戒を持って人間に生まれながら、

どうして目の見えない人、耳の聞こえない人、口のきけない人、背の低い人、足の不自由な人、

 

背骨が後方に盛り上がり、弓状に歪曲したりする病気にかかる人、

貧乏な人、多病の人などの差別があるのか(趣意)」(御書四三〇頁)

 

という〝問い〟を設定し、それに〝答える〟形で経文論釈を通してその因果を明かしました。

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】6/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)12時05分21秒

  そして大要、次のように答えています。

 

「竜樹の書いた大智度論にはこうある。

 

『もし衆生の眼を破り、えぐったり、正法を持って真実を見る眼を誹謗して破っても

罪にならない人は、死んで地獄に落ち、罪を終えて人と生まれて盲目となる。

また仏塔の中の火珠および灯明を盗むなどの前世の業因によって自身の眼の光明を失う』とある。

 

また、耳の聞こえない人の前世は、師匠や父の教訓を受けようとせず、聞いても実践しないで、

かえって怒り恨む。この罪によって耳が聞こえない人となる。

 

また、前世に他人の舌を切り、あるいはその口をふさぎ、毒を与えて口をきけないようにしたり、

あるいは師匠の教え、父母の説教を聞いて途中でさえぎる。

 

これは世に生まれて人となるが、唖(おし)になって物を言うことができない(趣意)」(同頁~)

 

と竜樹の説を紹介し、また

 

「前世に他人の坐禅を妨げたり、坐禅の道場を破ったり、呪術で人を祈り、

怒らせたり争わせたり婬欲(いんよく)を起こさせた者は、今世にはたくさんの悩みがあり、

 

それは深く厚く、ちょうどバラモンが田畑(財産)を失い、

妻が死んで即時に発狂し、裸体で走り出したようなものである。

 

前世で仏・阿羅漢・辟支仏の食物や父母親族の食物を奪った場合は、

たとえ仏の在世に生まれ合うことができたとしても、飢えや渇きの苦しみを受ける、

それは罪が重いためである。

 

前世に好んでムチや棒で人を打ち、拷問し、

拘束したりして種々に悩ませたために、今世に病苦となるのである。

 

前世に他人の身を傷つけ、頭を切り、手足を切り、種々に身体を傷つけ、

あるいは仏像を壊し、仏像の鼻や賢人聖人の像や父母の肖像を壊した者は、

 

その罪によって障害のある身となるのである。

また悪法を修行した報いとして、醜い身体に生まれる(趣意)」(御書四三一頁)とあります。

 

 

 

・・・・つづく(たぶん夕方)

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】7/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時27分13秒

  さらに「法華経(譬喩品)には

 

『もし人が法華経を信じないで毀謗するならば、人と生まれることがあっても、

眼・耳・鼻・舌・身の五根は完全ではなく、目の見えない人、耳の聞こえない人、障害のある身と生まれるだろう。

 

口の息は常に臭く、貧乏でいやしい身となって人に使われ、多病で身体は痩せ細り、頼るところもない。

人から背かれ、脅迫され、盗まれるだろう――このような罪のために不慮の災難にあうであろう(趣意)』とある。

 

また法華経(勧発品)には

 

『法華経を受持する者を見て、その過去の過ちを言い出す者は、たとえそれが事実であっても、

事実でなくても、その人は現世でハンセン病を得るであろう。

 

もしこれを軽蔑する者は、いつの世でも牙歯はすいて欠け、醜い唇、平たい鼻、手足はもつれて曲がり、

眼はすがめ(片方の目が不自由、独眼)となり、身体は臭く汚く、悪いでき物に膿みや血がたまり、

腹には水が溜まり、短気である、などの悪い重病にかかる(趣意)』とある(通解)」(同頁)

 

ことを紹介しました。これが仏の知見した生命の実相(十如是)です。

 

信じる、信じないに関わらず、これが仏法の厳しき因果です。仏は諸々の生命の実相を

ありのままに見て、生命は十界を互具して永遠に続くものだと捉えていました。

 

それは生の生命、死の生命の区別こそあれ

〝生命は生まれ変わる〟というものではなく、変化しつつもそのまま続くということです。

 

大聖人は極寒の地、佐渡で〝開目抄〟を著し、その中で経典(心地観経)にある

 

「過去の〝因〟を知らんと欲せば、その現在の〝果〟を見よ。

未来の〝果〟を知らんと欲せば、その現在の〝因〟を見よ」(御書二三一頁)の文を通して、

 

迫害の本質を語り、どんなに不遇な人生であっても、

未来を幸福な人生に変えるのは、今現在の「一念」の中にあることを教えました。

 

大事なのはこの現実の人生をどう生きるかであり、

この人生を生きる生命それ自体の問題を解明しきる事だと思います。

 

それを万人に伝えるために、池田先生は初代・二代の意思を継ぎ、

あらゆる障魔の防波堤となって、学会員を育成してきたのだと考えます。

 

それを無視して

 

「学会から打ち出された戦いはすべて信心で受けとめろ」

「心の持ち方ひとつで幸福を感じられる自分になる」

 

などという、いわゆる〝心の持ち方論〟的な思想や教訓は、アヘン(麻薬)であり、邪義です。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】8/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時27分49秒

  日蓮仏法は一人の人間における正しい人生の目的を教え、

人々を目覚めさせて、絶対的幸福境涯への道を解き明かした生命哲学であり、

それを世界に伝えているのが池田先生を中心とする創価学会です。

 

それはまた、苦の人生から楽の人生への道であり、狂気の人生から正気の人生への転換でもあるのです。

 

さて、話は変わりますが、

 

大聖人から唯一〝修利槃特〟のあだ名を付けられた富木常忍(御書九七六頁)は、

母の三回忌追善法要のために、身延にいる大聖人に供養の品を届けたことがありました。

 

その供養の品々の返礼として、富木常忍は大聖人からお手紙(御書九八二頁)を頂いています。

 

その手紙の内容を簡単に説明すると、

 

法華経で説かれる〝相対種(そうたいしゅ)の成仏〟と〝就類種(じゅるいしゅ)の成仏〟の二種類の成仏について

問答形式で説明されながら、特に〝相対種の成仏〟を通して、末代凡夫の即身成仏の法門を教えられました。

 

そして、相対種の成仏の法門を聞いて始めて、真の意味で法華経を聞いたことになる。

 

なぜなら、法華経は万人成仏の経典であり、仏の出世の本懐は「一仏乗(即身成仏)」を説くことにあったからだ。

 

だから凡夫の即身成仏を可能にする〝相対種の成仏〟の法門を聞かない限り、

その他の法華経の法門を聞いても、法華経を聞いたことにはならない――というものです。

 

いったい〝相対種の成仏〟とは何でしょう。

 

むずかしい話はなるべく避けて話を続けます。

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】9/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時28分30秒

  大聖人は法華経(薬草喩品第五)の「種・相・体・性の四字」の文を通して、

末代の凡夫が法華経を修行する方法が二つあり、一つは〝就類種の開会〟と、

もう一つは〝相対種の開会〟があると述べました。

 

〝開会〟とは、簡単にいうと「成仏」という意味です。

 

また「種・相・体・性の四字」の〝種〟は仏の種子、つまり仏種のこと。

〝相・体・性〟は十如是(相・体・性)のことで、衆生の姿、人間の生命ということです。

 

まず〝就類種(成仏)の修行法〟は

同類種とも表現し、原因(仏性)と結果(仏果)が同じものでなければならないという

前提に立って、自身の仏性を開発する修行で煩悩を排し、迷いを除いて、

 

ひたすら清浄な仏性を開いて仏果に至るために生命本来の力を出していくことです。

 

つまり、仏法の因果でいう〝善因〟を積んで〝善果〟である「仏果」を成就するということです。

 

それに対して

 

〝相対種(成仏)の修行法〟は

煩悩(無明)・業(悪業)・苦(生死)の〝三道〟が、

そのまま法身(仏性)・般若(智慧)・解脱(自在)の〝三徳(三身如来)〟に転ずることです。

 

つまり、悪業が転じて幸福への〝因〟となることであり、

凡夫の迷いと苦しみの生命自体が、そのまま仏種、仏性を開発するきっかけとなって

 

仏果を成就するという意味です――どういう事なのか、じっくり見ていきましょう。

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】10/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時29分11秒

  大聖人はどんな境遇の人であれ、末代の凡夫は

必ず〝即身成仏〟できる原理を問答形式で分かりやすく教えました。

 

そしてまず、疑難を投げかけてこう言います。

 

「今までの話を聞いて、ちょっと疑問に思うことがある。

そもそも火から水は出ないし、石から草は生じない。

 

悪因があるから悪果を感じ、善因は善報を生ずるのは仏法の常識であり、

定まった因果の理法である(趣意)」(御書九八三頁)と。

 

この疑難は私たちにとっても非常に納得できます。

 

たとえば、重度障害者であるグリグリの身内は生きること自体が苦しみであり、

苦しみの原因になっている障害の身は、その根源を探れば、過去世の謗法ゆえであり、

 

貪・瞋・癡の三毒より生じたものです。

 

しかもこの煩悩である三毒と苦果の二道によって、苦しみの世界に縛りつけています。

 

それなのにどうしてこの三道(煩悩・業・苦)が

「じつは三道が、ほかならぬ三徳(法身・般若・解脱)なのだ」と言えるのですか。

 

そんなこと言われても到底、納得できるものではない――となります。

 

大聖人はこの疑難を設けて、何と答えたかというと

 

「あなたの疑いはもっともなことです。私はこのことを心得ていない。ただし・・・・・」(同頁)と語り、

 

竜樹と天台の言説を引用して「即身成仏」の法門を明らかにし、こう述べます。

 

「竜樹は妙法の〝妙〟の一字を解釈して

『たとえば、大名医がよく毒を以って薬とするようなものである』といわれている。

〝毒〟とは何かというと我らの煩悩・業・苦の三道のことであり〝薬〟とは何かというと、

法身・般若・解脱の〝三徳〟である。

 

『よく毒を以って薬とする』とはどういうことかというと、三道を変じて三徳とすることである。

 

また天台は『妙は不可思議と名づける』といい

『一心に十法界を具している。あるいはまた不可思議境という。意(こころ)はここにある』といわれている。

 

即身成仏の法門とはこのことである(趣意)」(御書九八四頁)と。

 

ここまで聞いても、やっぱり仏法の因果からいえば、悪因が悪果を生み、善因が善果を生むのであって、

悪因がそのまま仏因になるという「相対種の成仏」は理解できません。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】11/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時29分49秒 編集済

  しかし、竜樹は妙法の〝妙〟の一字を、名医の「変毒為薬」に譬えました。

 

つまり、名医は病者の病を治すために、毒を調合して薬としますが、

問題は毒をいかにして病に効く薬とするかにあります。

 

その場合、名医の調合した毒を、患者自身の生命力で「病を治す薬」に転じているのであって、

名医は患者自身の病の状況や生命力をよく知ったうえで薬を作るものです。

 

名医は仏であり、患者は凡夫である私たちです。病は迷いです。

 

仏は衆生の迷いという病を治すために、病の源である三道そのものを逆に利用し、

それを使って病んでいる衆生の生命のなかで三徳の薬となるように仕向けているのです。

 

また、天台が〝妙〟の一字を「不可思議」と名づけたのは

 

〝就類種の成仏〟は、善因を積んで善果である仏果を成就する修行法だから、

凡夫の私たちにも理解しやすいので「思議(議論しやすい)種」としたのに対して

 

〝相対種の成仏〟は、すでに仏法の因果は超えていて理解できないことだから

「不可思議(議論が不可能)種」と立て分けて、そう言ったのです。

 

問いはさらに続きます。

 

「凡夫の我々にもこの秘法(相対種の成仏)の意(こころ)を理解することができるだろうか」(同頁)と。

 

大聖人は

 

「私見による〝答え〟は無益であり意味がない。竜樹も大智度論のなかで

『今、煩悩を断じ尽くした三乗(声聞・縁覚・菩薩)は、仏になれないと決まっているのに、

かえって成仏するというのは、ただ仏のみがよく知っていることである。

 

論議とは正しくその事を論ずべきであるが、測り知ることはできない。

だから無益な論議をしてはならない。

 

もし仏になることができた時は、よく理解し納得することができる。

それ以外の人は、ただ〝信ずべき〟であって、いまだ理解し納得することはできない』と述べている(趣意)」(同頁)

 

と竜樹の言説を紹介して答えます。

 

そして「法華経(方便品第二)の『唯仏与仏・乃能究尽(ただ仏と仏とのみがよく究め尽くしている)』とは、

 

法華経において煩悩・業・苦の三道がそのまま

法身・般若・解脱の三徳となると説いて、二乗(舎利弗)は成仏した(趣意)」(同頁)と述べました。

 

つまり、竜樹の〝信じるしかない〟という言葉は、誰に向けられて言ったのかというと、

 

別教・円教の菩薩や、普賢菩薩・文殊師利菩薩の大菩薩に対してであり、

ましてや二乗・末代の凡夫が法華経の妙法の力を知り、理解できるはずもなく、

 

ただ〝信ずる〟以外に「成仏の門」に入ることはできないということです。

 

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】12/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時30分29秒

  仏界の境涯を涌現するための〝因縁〟を明かした十法界明因果抄には

 

「仏界とは、菩薩の位において〝四弘誓願〟を発することをもって戒となす(通解)」

(御書四三四頁)とあります。

 

四弘誓願とは、

 

①一切衆生を悟りの道に入らせ、一切衆生を救うことを誓う。

②一切の煩悩を断とうと誓う。

③仏の教えをすべて学びとろうと誓う。

④仏道修行において無上の悟りに至ろうと誓う、ことです。

 

これは爾前教で〝四弘誓願〟という菩薩戒を持った結果として仏果が示された文ですが、

 

法華経では一大事因縁を明かし「開示悟入」を説いて、衆生の〝心〟に本来、仏界が具わっていることを示し、

自分自身の仏性を悟ることによって〝即身成仏〟することを明確にしているのです。

 

つまり、

 

目が見えない人は見えないまま仏になり、

耳の聞こえない人は聞こえないまま仏になり、

口でしゃべれない人はしゃべれないまま仏になるということです。

 

そして、どんな重度の障害を持つ身体であったとしても、

あらゆる形式を超越して「法華経を信ずる強き心」によって成仏できるのです。

 

大聖人は

「一念に億劫の辛労を尽せば、本来無作の三身念念に起るなり。所謂、南無妙法蓮華経は精進行なり」

(七九〇頁)と訴えています。

 

この御文は、今現在の心が広宣流布(四弘誓願)のために、努力しぬき、

苦労しぬいていけば、本来、わが身に具わる仏界が必ず涌現する。

 

広宣流布のために尽力すること自体が南無妙法蓮華経そのものなのだ――と捉えたい。

 

言い換えれば、

 

広宣流布は四弘誓願を誓った仏と仏でしか成し得ない大偉業であり、

仏と仏のみがよく理解し、説くことができる大生命哲学なのだと思います。

 

障害者であれ、健常者であれ、涙も出ないほど苦しくて、苦しくて、

もがき苦しむ日々の連続であったとしても、ただ今・現在「生きている」ということは、

 

心のどこかで仏法を求め「幸せになりたい」と願っているのではないでしょうか。

 

その苦しむ人を肩に背負い、支え励まし、蘇生させ、顔を上げて前を見ろと

教えてくれたのは、池田先生であり、学会同志です。

 

池田先生の心は自身亡きあとのことを考えて〝即身成仏の法門〟を現代に縦横無尽に展開し、

末代の衆生に成仏への方途を説き示し、書き残しているのだと思います。

 

こう考えれば、かつて妻が言った

 

「私にとって池田先生の指導は『御書』なのよ。そんなの私の常識」

 

という言葉も本質を捉えていると思う。

 

【舎利弗と修利槃特の共通点と成仏の門】13/13  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月27日(月)15時31分26秒

  相対種の成仏――つまり即身成仏の法門は「唯仏与仏・乃能究尽

(ただ仏と仏とのみがよく究め尽くしている)」の秘密の法門であり、

凡夫の思議しがたき法門なのです。

 

大聖人は「そのような秘密の法門を聞いて、いかなる利益があるのか(通解)」(御書九八四頁)

 

との質問に対して

 

「始めて法華経を聞くということである。・・・・そして末代の凡夫が

この法門を聞くならば、ただ自分一人だけが成仏するばかりではなく、

父母もまた即身成仏するのです。これが第一の孝養である(趣意)」(同頁)

 

と答えました。

 

いうまでもなく〝聞く〟とは〝信じる〟ことと同義だと思います。

 

何物によっても壊されず、永久に崩れることのない絶対的な幸福

――これは人類の永遠の願いであり、万人共通の理想だと思います。

 

その願いと理想を全世界に流布するために、

師匠は今は何も語らず、弟子を厳しく鍛えているのだと考えます。

 

最後に、昭和三十一年の「大白蓮華」に掲載された師弟不二の座談会を記して終わります。

 

池田

「折伏をするということが、即自分自身を折伏しているんだということに通ずるでしょうか」

 

戸田

「それでは教えよう。最後の一問を教えます。自分自身が南無妙法蓮華経で生きているということです。

それ以外に折伏はないのです。覚えましたか。手練手管も方法もなにもありません。

 

ただただ、おれは南無妙法蓮華経以外になにもない! と決めることを末法の折伏というのです。

 

それ以外にないでしょう。

 

どういうふうにやったら南無妙法蓮華経が弘まるか、

どのようにやったら南無妙法蓮華経がよくなるか、

人によく教えられるか、そんな方法論は関係ありません。

 

我みずからが南無妙法蓮華経だ!南無妙法蓮華経以外になにもない! と決めきって、決めきるのです。

 

おれはそれ以外にない、悪ければ、殺しても死んでもなんでもしょうがないと、

自分は南無妙法蓮華経だと決めるのが、最後の折伏です」

 

池田

「はぁ、それは簡単です。・・・・・・(笑い)」

 

戸田

「そう、簡単なのです。どうにでもいおうと思えば無限にいえるけれども、しかし、真義はそれしかない」

 

(戸田城聖全集第二巻四六六頁)

 

おわり

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