五重の相対の現代的な理解のために

五重の相対の現代的な理解のために

壮年部の研究発表より

 

<五重の相対の現代的な理解のために>

 

 今回は、五重の相対を単純な思想・宗教の高低浅深(教えの深さ、言い換えれば救える範囲)について比較したものではなく、自分自身の人生観の自己点検の物差しとして考えてみたいと思います。

 

この物差しとは、人間の生き方のバロメーターのようなもので、どんな思想・宗教を信じている場合にでも適用可能な人生の尺度ということが出来ます。

誰人にも生命の尊厳が内在すると説く日蓮大聖人の仏法は、思想、宗教の枠を超えて普遍的なものであると同時に、日蓮大聖人の仏法を信じている方々に対しても平等に、限りない向上を求める哲学であることが理解できます。

 

池田先生の世界的な対話の展開を学べば学ぶほど、私達はもう一度、この五重の相対の意義をもう一歩深く解釈する必要がある時を迎えたのではないでしょうか。

これは、師匠池田先生の対談相手の方々が、五重の相対では「外道」という枠組みに分類される宗教を持たれている場合でも、私達以上に、深き内面の思索(内道)をされ、利他の菩薩のごとき慈悲を持ち(大乗教)、差別なく(実教)民衆のために尽くしておられることを鑑みれば明らかです。

 

先生は、法華経の智慧第三巻で次のように語っています。

「仏法は人間そのものを見る。その人の「心」「生命」を見るのが仏法です。仏眼、法眼で見れば、仏教徒ではなくとも、菩薩界の人がいる。反対に、仏教徒でも外道の人がいる。見かけは信心しているようでも、心は餓鬼界の人もいる。「何教徒か」を見るのではない、その人の生命が「何界か」を見るのが仏法なのです。そして、全ての人の中の仏界を開くための仏法です。世間は「差別(差異)」の世界である。仏法は「出世間」です。出世間とはあらゆる表面の差異を超えて、人間の「いのち」を見るということです。」

そこで、自らの一宗一派が正しいことを証明するための日蓮正宗的な外道の我田引水教学から一歩離れて、この五重の相対の現代的意義について論じたいと思います。

 

1.内外相対

 

これまで内外相対というと、単純に「仏教とそれ以外の教え」ということとされていました。しかし、こう決め付けてしまうのは、上記のような理由からも、我田引水ではないでしょうか。

本来の仏法の説く内道とは、すべての幸不幸の原因を自身の内面に見出す考え方のことであって、その逆に、幸不幸の原因を自分自身の生命の外に求め、環境が幸不幸を決めるという考え方のことを外道と呼ぶのです。

 

この判断基準に照らすならば、SGI・創価学会に所属し、たとえ仏法を形ばかり実践していたとしても、自分自身の生命の中に幸不幸の原因があるということを信じていないならば、外道的な生き方だと言えます。

また、世間の立場や組織の役職等にこだわって、人間を馬鹿にしたり差別するような行動をとる方のことも「外道の人」と呼べるのかも知れません。まさにそのとおりの内容が日蓮大聖人の御書に示されているのです。

「雖学仏教還同外見(すいがくぶっきょう・げんどうげけん=仏教を学んでいても、かえって外道の考え方と同じ人がいる。)」

どんなに長い間信心をしていても、いつもいつも「誰かの」「何かの」せいにして、愚痴の題目をあげ、人間革命ができない人もいます。SGI・創価学会のメンバーだから内道とは限らず、メンバーでない人は「外道」だと決め付けることはできないのです。

 

逆に、「神的なもの(生命の尊厳)は、外ではなくて、自身の内面に存在する」と主張するキリスト教徒の友人もいます。実際、先生と対話されている世界の人間リーダーたちも、内面を見つめ、内面の変革を行おうと切磋琢磨されている素晴らしい方ばかりです。

つまり、SGI・創価学会のメンバーであるから、ご本尊様を受持したから、幹部だから、自動的に「内道」になれる訳ではなく、あくまでも一人ひとりの内面の価値観と、それが生み出す行動が決め手であるということなのです。

このように、五重の相対は、どこまでも自分自身の信心や境涯をチェックし、向上していくための物差しであり、バロメーターなのです。「キリスト教徒は外道、仏教徒は内道」という○×式の割り切りは、逆に池田先生の嫌いな「教条主義」と呼び、仏法と対極にある考え方ではないでしょうか。

 

内道とは、「自己の内面の変革によって、環境変革・社会変革のエネルギーを生み出す実践」です。つまり、いたずらに環境を変えようとする(またはコントロールする)のではなく、自身の内面の無明(弱気、諦め、傲慢、不知恩などのマイナスの精神作用)の征服によって環境(自分自身の身体から始まり、人間関係を変え、遂には社会環境まで)を変革できるという、強い主体性を基盤とする自立した生き方なのです。

一方、外道は、「外界や環境が幸不幸の原因と捉え、環境を征服することを第一義とする実践」です。信心していても「あの人が、ああしたから、私はこんなに不幸なのだ。」「社会がこんなだから私は不幸なのだ」という一念で祈っていてもなかなか状況が変わらず宿命転換できないのは、実は奥底の一念が「外道」になってしまっているからなのではないでしょうか。

 

(以上、内外相対)

 

2.大小相対

 

大乗教と小乗教の違いというのが表面上の意義ですが、その本来の意味から考えると、大乗教とは、「他人の幸福を優先し、民衆への貢献を第一義にする実践」であり、「利他」の境涯です。

一方で小乗教とは、「自分と自分の周りだけの幸福を追求する生き方」であり、自己中心のエゴイズムの価値観です。

 

他者の幸福という目標は、自分自身の成長と他者の幸福とが相互に循環して、次々に生命の広がりが生まれ、人類全体を最高の高みに到達させるまで、限りない成長を双方に生み出します。その成長の瞬間のたびに得られる巨大な幸福感は、菩薩に「この命を懸けてでも一切衆生を成仏させたい」という高貴な誓い(衆生無辺誓願度)を自発的に決意させるのです。その結果、菩薩は「死の恐怖」からも解き放たれるのです。御書に、

「仏界とは、菩薩の位において四弘誓願をおこすを以て戒となす」(通解:仏界とは、利他の精神で一切衆生の救済を誓う実践をし続けることで開かれる境涯である。)

とあるように、利他の精神で「四弘誓願」を、とりわけその第一である「衆生無辺誓願度」を誓うことが、人間の成長と幸福を決定づける最高の実践なのです。

 

一方で自己中心の欲望は、必ず限界にぶつかるという分かり易い事例として、食欲を考えてみましょう。お腹が空いていれば、食べ物は美味しいものですが、どんな豪華な料理でも、食べて食べてお腹が痛くなってもまだ食べさせられると嫌になり、それでも無理して食べると体を壊して病気になりますし、それでも無理に口の中に突っ込まれると最後は死んでしまいます。要するに、自己中心の快楽を追求すると、必ず苦痛という壁にぶつかり、それでも快楽を追求すると最後には死というハードルにぶつかることに気がつくのです。快楽を追求したら、苦しみの究極である死にぶつかる、という矛盾は、人間の快楽への執着を吹き消すだけの衝撃です。釈迦が、エゴイストは絶対に成仏できない、と示したのは、自己中心の人間は「死の恐怖」という苦痛を克服することが出来ないからなのでしょう。

 

また、自己中心の人間は、当然ですが皆から嫌われ、晩年になるほど一人ぼっちになっていって、最後は孤独地獄の中で死ぬという哀れな人生が待っているのです。

「自分が幸せになれたら、他の人のことも考えよう」とか「自分がこんなに不幸なのに、他の人にまで手が廻らない」というような気持ちが、生命力が弱まった時に出て来ることはありませんか?実はそれはすでに小乗教的発想なのです。

また、「こんなに活動を頑張っているのだから、きっと功徳があるに違いない」と、心のどこかに「取り引き」のような考えが少しでも残っていないでしょうか。これは、他人の幸福を自分自身の幸福の道具にする自己中心的な発想です。

そして、「皆の幸せ」「私の幸せ」どちらをどの位の割合で祈ればいいのか、という質問がある時もあります。これも計算です。

 

目の前に死の病で苦しむ人がいたら、目の前で溺れている人がいたら、その人のための祈りが自分の功徳になるとか、何分はその人のために祈ろうとか、計算する余裕などあるはずがありません。心の奥底から、「今この人を救わずにおくものか!」という炎のような慈悲が湧いてくるに違いありません。

そのような慈悲の炎を心の中で燃やし続け、草創の方たちの戦いのように、「我が身を厭わず人々の幸福のために走りぬく」という姿こそ、大乗教の心であり、池田先生が私たちに示してくださった崇高な生き方なのではないでしょうか。

(以上、大小相対)

 

3.権実相対

 

従来の形式的な理解では、実教である「法華経」と、それ以前の教え(爾前教)である権教との相対です。

これらにどんな違いがあるかを考えてみると、御書に、「行布(差別)を存する爾前教」とあるように、法華経以前の教えには差別がありました。二乗(自己中心)、悪人、女人は成仏できないと説かれていたのです。要するに、権教とは「特定の者のみは幸福にするが、対立者や従わない者や能力的に劣るとされる者とは一線を画する差別を有する教え」なのです。

 

これに対して法華経とは、御書に、

「とてもかくても法華経を強いて説き聞かせ給うべし。信じる者は仏になるなり。謗ぜん者は毒鼓の縁となって(一度地獄の苦悩を体験して)仏になるべきなり」

とあるように、善人を速やかに成仏させるばかりではなく、否定する人々をも、厳父の慈悲で一度は地獄を体験させ、「病によりて道心は起こるべく候」等とあるように、法華経の功徳の力とは、悪人であっても地獄の苦しみから逃れたいという一心での求道心を起こさせ、妙法を求めさせる強力な人生の法則なのです。

 

法華経は正確には「妙法蓮華経」と呼びます。御書の御義口伝から考察すると、大宇宙という生命のDNA(根源の法則)も私たちの生命も、同じ「妙法(無明と法性とが一体の生と死の法則)」「蓮華(因果倶時の関係性の法則)」「経(熱力学第一法則とも呼ばれるエネルギーが形を変えて不滅であるという法則)」で出来ているとされています。

「我らの頭は妙なり、喉は法なり、胸は蓮なり、腹は華なり、足は経なり。この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり」

では、どのようにすればその強力な法則を体得できるのでしょうか。それは、一切衆生(全人類、さらには高等動物たちも含みます)を救うために宇宙と同じ価値のある宝である自分自身の生命を懸けることです。

御書には、「仏界とは、菩薩の位に於いて四弘誓願を発すを以て戒と為す」「四弘誓願の第一である衆生無辺誓願度の願いを成就しなければ、無上菩提誓願証(成仏)の願いも達成することは出来ない」と示されています。

 

このことから、まだご本尊が顕されていない時代であっても、このとおりに自分の命を一切衆生の成仏のために懸けた生命は成仏できる可能性があったことが理解できます。ただし、南無妙法蓮華経のご本尊が顕される以前は、天台や伝教のような、智恵もあり、機根も高い、恵まれた人間だけしか十分な修行が出来ず、成仏は難しかったのでしょう。ご本尊とは、どんな人間でも易々と自分自身の潜在能力を引き出すために顕されたものなのです。

 

この法華経という強力な人生の法則を体得すると何が変わるのか?まず神と人間との関係が逆転します。御書に、

「神は所従なり、法華経は主君なり」

とあり、また「人法一箇」という概念があって、妙法蓮華経というには人と法があるのです。妙法蓮華経をいろんな困難に耐えて命がけで広める人は、法を自らの生命に体得しているので「法華経の行者」と呼びます。この法華経の行者の位になると、神々を動かす力用を体得するのです。

 

その典型が、日蓮大聖人が竜ノ口の死刑執行場に深夜に連行された際、鎌倉の若宮八幡宮の前に至って、執行役人たちに命じて馬を降り、

「如何に八幡大菩薩はまことの神か!今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。その上身に一分の過ちも無し。今夜首を切られて霊山に行ったなら、八幡は法華経の行者を守るという約束を守らない神だと釈尊に申しつけるぞ。痛いと思うならば、急ぎ急ぎなすべきことをなせ!」(趣旨)

 

と厳しく神を諫暁(かんぎょう=いさめること)した結果、いざ処刑という危機一髪になった瞬間に、突然光り物(天文学的にはエンケ彗星のカケラで、月の無い真っ暗闇が満月よりも明るく照らされました)が出現し、死刑執行人たちは恐れて土下座し、あるいは逃げ出してしまって、日蓮大聖人を処刑できなかったのです。これこそが宇宙の根源の法則である妙法蓮華経を体得した人間を守るために現れる諸天善神の働きの典型です。SGIメンバーで真剣な実践をされた方々は皆さんが大なり小なり体験されていることです。

 

それでは西洋で釈迦と同じように尊敬されているキリストの場合について考察してみましょう。

昭和22年にヨルダン国境の死海のほとり、クムランという洞窟で大量に発見されたバイブル(死海文書と呼びます)には、キリストが当時使っていた言葉であるアラム語の文書がたくさん見つかり、それらが1990年代から公開され、翻訳されて分かったことがあります。それらの聖書の中から「人間の寿命は120歳」という、世界で仏教にしかない見解が見つかったため、実はキリストはある時期に仏教に出会い、仏教を学んでいたという可能性が判明したのです。ここから、キリストは仏教徒だったという説が生まれている訳ですが、もしそうであったとしても、残念なことに彼はまだ法華経を体得していなかったのです。

 

彼は菩薩として民衆を幸福にする偉大な行動をされたのですが、法華経の行者として仏界を開いていなかった結果、神や大自然を突き動かす力用を発揮できず、「神よ神よ、我を見捨て給うたか」という無念の言葉を残して、ゴルゴダの丘でローマ軍の兵士によって処刑されて亡くなってしまったのです。もしも彼が法華経を体得していれば、宇宙や大自然を突き動かして、処刑は出来なくなっていたことでしょう。

この違いは、御書に、

「たもたれる法だに第一ならば、たもつ人、したがって第一なるべし」(実践している法が最高であれば、その法を実践している人は最高の力を発揮することが出来るのである。)

とあるように、人間は自分の心の中にどのような価値体系を持つかが決定的に重要なのです。

 

もちろんその法を信じていれば努力する必要がないなどという訳ではありません。逆にその法が示す価値体系のとおりに実践することによってのみ、究極の力用を発揮できるのだということは当然の道理です。「人法一箇」とはそういうことなのです。

その意味でも、芸者遊びをしてニヤニヤしているような坊主は法華経を利用して快楽にふけっているだけですから、逆に厳しい反作用としての堕地獄という罰を受けることも確定しているのです。御書の中でも開目抄に、「順次生に地獄に堕ちることが確定している不信の者は、死ぬ寸前まで現証が出にくい」と書かれているとおりなのです。

 

また、例えば欧米ではダライ・ラマを尊敬する方がたくさんいます。彼は「観音菩薩の化身」です。正しい名称で「観世音菩薩」とは、法華経の経文の中で説かれていますが、自分に捧げようとされた供養を、自分は受けずに法華経を説いた釈迦仏に捧げます。

その意味は、供養を受ける資格は最高の存在にあり、それは法華経という宇宙の究極の法則を体得した釈迦に資格があるのであって、観音菩薩自身にはその資格がない、ということなのです。

釈迦は、その宇宙の根源の法則を、80年の人生の最後の8年をかけて「妙法蓮華経」として説きました。法華経を読むと、釈迦自身の言葉で何度も「この法華経が最高である」「過去・現在・未来に説く教えの中で、この法華経が最第一である」と繰り返し宣言しています。したがって、もしも仏教徒であるならば、この釈迦の言葉を信じるのが論理的に正しいことになります。

 

観音とは「限りない慈愛」を象徴的に表しており、その慈愛を求めて、アジアを中心に観音経として、独立して信仰されてきた歴史もあります。しかし、観音品はあくまでも、法華経の一分です。

法華経の智慧の第六巻で池田先生はこう述べられています。

「観音の力の源を多くの人が誤解している。力の源は妙法です。(中略)観音菩薩も妙法―――寿量文底の南無妙法蓮華経―――によって、人を救う力を得ているのです。(中略)南無妙法蓮華経が電源力であり、観音の力はそこから電気を分けてもらっているにすぎない。ゆえに大聖人は「今末法に入って日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり」と断言なされている。」

この法華経の中では、大きく二つのことが説かれています。

 

一つは「生命の永遠」です。これについては、五重の相対の次のステップである「本迹相対」で詳しく説明します。

もう一つが「未来の予言」です。釈迦が死んで2千年過ぎると、釈迦の説いた教えが民衆を成仏させる力を失う末法と呼ぶ時代が訪れるのですが、その暗黒のはずの時代に、法華経が全世界に広がること、その法華経の教えを広める人の条件について予言されているのです。

この予言の条件どおりに出現して、一切衆生の成仏のための設計図でしかなかった釈迦の法華経を、実践論(ご本尊に南無妙法蓮華経と自他共に唱えることで、自分自身の中の仏を開く(成仏する)ことを可能にした)に高めたのが日蓮大聖人です。しかし、日蓮大聖人は、日本一国の1割程度に法華経を広めただけで入滅され、その後はあっという間にただの外道のような宗派に堕してしまい、それから700年の時が流れました。そして、御書に説かれた広宣流布の予兆としての第二次世界大戦を契機に創価学会が出現したのです。

 

「一閻浮提打ち乱すならば広宣流布は疑いなからんものか」

いよいよ「時」が来て、法華経に説かれた「教えを広める人」の条件どおりに「三類の強敵」と呼ぶ弾圧を受け、人類の歴史で初めて法華経を一閻浮提(全世界)に広めた人が出現したのです。それがSGI会長である池田先生なのです。したがって、もしも自分は仏教徒であると思っている方ならば、論理的な必然として妙法蓮華経を、そして日蓮大聖人の教えを信じるのが正しく、さらにSGIの実践(全人類の救済のために、法華経を根本にして、平和と文化と教育の実践に人生を懸ける)をするのが最も正しい生き方であり、人間として最高の「法華経の行者」の人生になるのです。

 

話が大きく広がりましたが、「法華経の行者」の人生には、差別はありません。法華経提婆達多品には、釈尊に敵対した最悪の提婆達多も一度地獄に落ちて成仏し、差別される条件を併せ持った(一番成仏から遠いと思われた)竜女が、並み居る優秀な弟子を差し置いて、「即身成仏」を遂げるという、ドラマチックなストーリーが描かれています。

「こんなに頑張ってきたけれど、私だけは幸せになれない」「あんな人は絶対に信心するわけがない」というような差別は、「法華経の行者」には無縁なのです。

(以上、権実相対)

 

 

4.本迹相対

 

 教義の表面的な観点(教相)では法華経28品のうちの「前半の迹門」と「後半の本門」の相対です。

 しかし、その本質を考えると、人生を今世だけと考える価値観か、三世永遠と考える価値観かの違いだと言うことが出来ます。

 

 迹門では、釈迦は今世で成道したことになっていますから、時空間は今世だけで、今世のみという限定した時空間が価値判断の基準になります。

 それに対して本門では久遠元初からの永遠性を説きますから、時空間は三世永遠で大宇宙をも超えるのです。

 この違いは現代に生きる私達にとって、どんな意味があるのでしょうか?

 もし、人生を建築物に例えると、一度きりの人生の場合は、今世で建て終わる程度の建築物で終わってしまいます。しかし、三世永遠の生命となれば、私達は壮大な建築物を建てることが可能になります。

 

 世界平和という人類未踏の作業も、また人類が今直面している様々な問題(環境問題・エネルギー問題等々)も、今世限りでは、私たちの出来ることには限りがあります。

「何度生まれ変わっても、絶対に全人類を幸福にする」と決意した生き方と、「今回の命がある限り頑張ろう」と思う生き方では、自ずから力の入り方、つまり飛距離が変わります。ボールを投げるとき、10m先まで届かせようと思って投げるのと、100m先まで届かせようと思うのでは、気合、筋肉の使い方、飛距離がすべて異なってくることを考えれば容易に想像できるはずです。

 つまり、生命の永遠性を感じることによって、今回の人生の意義を深め、より高みを目指す生き方ができるということです。

 

 また、誰もが避けられない「生死」の問題を乗り越えるためにも、この本門の尺度は大きな意味があります。

 今世だけの価値観だと、人生の晩年になるほど、もう先は少なくなってしまって、今から何かを始めよう、などという若者のような発想は出てくるはずもありません。今さら何かに挑戦しても、どうせ途中で終わってしまうかも知れない、などと考えてしまうと、なかなか本気で努力する気は出て来なくなります。

 

体が健康な間は、まだ目先のいろんな楽しいイベントで誤魔化せるかも知れませんが、やがて体が言うことをきかなくなってくると、本当に喜びが少なくなってしまいます。おまけに、その先には完全な「無」がブラックホールのように口を開けて待っていると思うと、その恐怖におびえるか、開き直って現実から目をそらすしかないかも知れません。事実、自己中心の方の場合は、同じ環境でも感じるストレスが強くなり、その結果として各種の病気の悪化が早くなり がちなのです。

 

 ところが、三世の価値観と、大きな目的意識を持っている人は、今世でやり残した ことがあっても、絶対にまた次の人生でリターンマッチをやってやる、という希望を見出すことが出来ます。御書に

「久遠を知るを身不動揺と云うなり」(自分自身の生命が永遠に続く存在だと知る

と身心が動揺しなくなるのだ。)

とあるのは、今世という狭い時空間を超えた時に、人間は人生の苦悩に揺るがない存在となるということなのです。

 

 しかも、池田先生が平成元年5月14日に千葉文化会館に来られた際に指導された、

「200年後の、全人類の1億人の人々がSGIメンバーになったその時に、また私と一緒に戦いましょう!」

というような時空を超えた熱いビジョンを知ると、本気で「池田先生と一緒にまた200年後に生まれてきて頑張るぞ!」と心を燃やすことが出来るのです。

このような希望は、素晴らしい自然治癒力の源泉になるので、今世でも健康体を持続し易いですし、死の不安さえも超えることが出来るのです。絶対的幸福境涯を築いて生き抜き、次の生への出発の希望に満ちた死を迎えることは、世界広布という三世永遠の大目的と、師弟の絆、同志との友情の絆によって実現されるのです。

 

 ところが、自己中心で目的観が小さい人は、生命が三世永遠に続くなどと考えると、逆にぞっとするような孤独感を感じるのです。それは、自己中心の人間からは、どんどん良い人が離れて行ってしまって、人生の最高の財産である友情が無くなって、孤独地獄のような晩年が待っており、そんな苦痛が永遠に続くなどということは、ただただ恐怖でしかないのです。釈迦が、弟子の中でも頭の良い二乗と呼ばれる者たちに、「二乗は成仏出来ない」(自己中心の、頭だけ良い人間には、成仏という最高の幸福は実現出来ない)と厳しく言われたのは、こうした悲惨を弟子に体験させたくなかったからなのでしょう。

 

 それでは私達は、毎日を生命の永遠性を自覚して生きているでしょうか?三世永遠という基本設計をおろそかにしたままで、目先のことや、せいぜい死ぬまでの数十年間のことのみに汲々としていないでしょうか?人類の未来について、夢を抱き、責任感を持って行動しているでしょうか?「責任は悟達に通じる」との池田先生の言葉がありますが、未来の人類に対する必死の責任感は、人生の最高の悟りを体得させてくれるのです。

 そうした人生の本質を問いかけてくれるのが、この本迹相対なのです。

 

 

5.種脱相対

 

これは釈迦仏法(本果妙)と日蓮大聖人の仏法(本因妙)の相対のことです。

釈迦仏法の本果妙は、過去世の宿命や、今までのマイナスを前提として、そのマイナスを消すために長い長い時間をかけて修行すること(歴劫修行)で成仏という最高の人間完成を目指す教えです。

 

 学会員でも、「先祖の宿業が重くって」とか「過去世の謗法が重いから」などと言われる方がいたら、実はその方は心の中の本音では大聖人の仏法ではなく、釈迦仏教を根本にしているために、大聖人の仏法の劇的な変革は起きにくいのです。

 それに対して、日蓮大聖人の仏法の本因妙は、過去には一切拘束されず、宿命とは民衆救済のための使命であるとする教えです。

 宿命は使命であり、民衆救済の武器として使うことによって、救われる者から救う者へとの転換をはかることが可能になります。

 

 そして、現実にこの自分の全身を民衆救済の武器にする、と決めて祈ることで、①同じ苦しみ持った友の心を事実として包み込む精神の大きさが生まれる、②大脳(前頭葉)のシナプス形成によって遺伝子の変化等を起こす結果、劇的に宿命が消滅してしまって、事実として宿命転換した自身の体験によって、同じ悩みを抱える友に勇気と希望を与えることが出来る、という2つのパターンで、劇的に民衆救済の渦を拡大することが出来るようになるのです。

 

 過去の宿命に追われて「救われたい」と祈るか、「この宿命を転換して、一切衆生を救っていこう」と祈るか、その一念の差は私たちの心の中にあり、祈る対象物や所属する宗教団体が何かというのは実は二次的な問題でしかありません。

「仏界とは、菩薩の位に於いて四弘誓願を起こすを以て戒となす」

と御書にあるとおり、たとえ「観心の本尊」が無かった時代にでも、一切衆生を救うためにこの命を懸ける誓いと実践を貫けば、成仏という最高の潜在能力の開花は可能だったのです。

 

ところが日蓮大聖人は、一握りの恵まれた人間だけでなく、どんな人にでもその最高の自己実現が出来易くするために、「観心の本尊」を顕されたのです。

坊主たちの教えをそのまま信じて、ご本尊とは仏壇の中に安置された掛け軸や板と考えている方が多いようですが、大聖人は「本尊の当体」とは私たちの生命のことだと教えられ、一切衆生を救う挑戦を続けなければ成仏は出来ない、とまで言われているのです。この生命の法則は、当然のことですが坊主でも民衆でも全く同じなのです。

「菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす 第一衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず」(菩薩という存在は必ず四弘誓願をおこす。その中の第一番目、広宣流布の願いが成就しなかったならば第四の成仏の願いも成就しないのである。)

 

 したがって、創価学会の入会届けを書いたからと言って、成仏出来る訳ではないし、本因妙の信心がすぐに身につくわけではありません。必須条件は、題目を唱えながら、この人生を懸けて民衆救済を強く強く誓い、行動し続けることなのです。その時に、

「一念に億劫の心労を尽くせば、本来無作の三身念念に起こるなり」

と御書にあるとおり、私たちの日々の一挙手一投足がそのままで、思ったとおり、言ったとおり、振る舞ったとおりが、民衆のための最善の未来を生み出すという「無作の三身如来」(仏)の振る舞いになっていくのです。文字どおり、全身が民衆救済の平和の戦いの武器になるのです。

 私達は、「何故、私はこんなに宿業が深いのだろう」「この宿業だけは転換できない」などと思っていないでしょうか?

 

「この自身の悲哀を乗り越え、過去の宿命の鉄鎖を断ち切ろう!」「何のために?」

それは、自分が救われるためだけではなく、苦の衆生を救っていく使命に生ききるためなのです。竜女の誓いは「我大乗の教えを開いて、苦の衆生を度脱せん」(私はこの法華経の教えを広めて、苦悩の衆生を救ってまいります)です。「私は皆を幸せにしたいのだ。そのためにこの宿命はある。この宿命を転換し、その実証を持って、人々を幸福へと導くのだ」という誓願にたったとき、瞬時に私たちの宿命は使命と変わり、人類の新しい未来を切り開いていくことになるのです。

 

そして、一人の人間のこの偉大な誓願による人類の蘇生の拡大を広宣流布と呼ぶのです。SGI・創価学会は、そのために出現したのです!未来の人類は、SGI・創価学会が存在したおかげで人類は滅亡しなかったということに気がつくことでしょう!

(以上、本迹、種脱相対)

コメント: 9
  • #9

    Q nights (日曜日, 13 11月 2022 18:19)

    やばい賢い!この人素晴らしい学者です!

    僕も五重の相対、本質の解釈を思う事はできましたが、あなたのように言語化する才能が私にはありませんでした。だから尊敬します。
    紙に書きました、忘れたくないからです。僕はこの信仰の威力を簡潔に伝えていきたい。

    この記事を書いてくれて、本当にありがとうございます。

  • #8

    justice514 (水曜日, 31 3月 2021 00:31)

    勉強になりました。現代版の五重の相対?についてあまり考えたことがなかったので、記事を読んで納得する部分が多かったです。
    今回感じたことはすべて定型文的な内容を信じるのではなく、自分の頭で考えて、調べて、指導を受けて、、、とにかく求道心をも燃やしていくことが大切なのかなと思いました。ありがとうございました。

  • #7

    hmic5504 (火曜日, 07 8月 2018 23:40)

    ガンジー(ヒンズー教)キング牧師(キリスト教の牧師)ローザ・パークス女史(キリスト教)マンデラ大統領(キリスト教)・・・

  • #6

    hmic5504 (月曜日, 06 8月 2018 16:19)

    キリスト教は「永遠の命」を得ることが最終目的であり「もっとも重要なふたつの掟」を持(たも)てば成就されます。キリスト教の「永遠の命」と仏教の「久遠元初の仏」は確かの呼び名は違いますが、内容は同じではと考えます。「三世(過去世・現世・来世)が説かれていないことのみでキリスト教が仏教より劣っているしてよいのでしょうか。ただし謗法の恐れもある箇所なので様々なご批判もいただきながら結論を急がず慎重に学んで参りたいと思います。

  • #5

    hmic5504 (木曜日, 17 5月 2018 16:10)

    仏教とキリスト教
    仏は「慈悲」/ 神は「愛」
    菩提心 / 隣人愛
    菩薩行 / 神の愛の実践
    人間ブッダ(始成正覚の仏)/ 人間イエス(神のひとり子)
    久遠元初(永遠)のブッダ / 永遠の命
    三身即一本覚の如来/ 三位一体(父と子と聖霊はひとつ=父は神であり、子は神であり、聖霊は神である) *聖霊はすべての人々に等しく備わっている。

  • #4

    hmic5504 (木曜日, 17 5月 2018 10:55)

    五重の相対の現代的な理解のために
    壮年部の研究発表より

    <五重の相対の現代的な理解のために>

     今回は、五重の相対を単純な思想・宗教の高低浅深(教えの深さ、言い換えれば救える範囲)について比較したものではなく、自分自身の人生観の自己点検の物差しとして考えてみたいと思います。

    この物差しとは、人間の生き方のバロメーターのようなもので、どんな思想・宗教を信じている場合にでも適用可能な人生の尺度ということが出来ます。
    誰人にも生命の尊厳が内在すると説く日蓮大聖人の仏法は、思想、宗教の枠を超えて普遍的なものであると同時に、日蓮大聖人の仏法を信じている方々に対しても平等に、限りない向上を求める哲学であることが理解できます。

    池田先生の世界的な対話の展開を学べば学ぶほど、私達はもう一度、この五重の相対の意義をもう一歩深く解釈する必要がある時を迎えたのではないでしょうか。
    これは、師匠池田先生の対談相手の方々が、五重の相対では「外道」という枠組みに分類される宗教を持たれている場合でも、私達以上に、深き内面の思索(内道)をされ、利他の菩薩のごとき慈悲を持ち(大乗教)、差別なく(実教)民衆のために尽くしておられることを鑑みれば明らかです。

    先生は、法華経の智慧第三巻で次のように語っています。
    「仏法は人間そのものを見る。その人の「心」「生命」を見るのが仏法です。仏眼、法眼で見れば、仏教徒ではなくとも、菩薩界の人がいる。反対に、仏教徒でも外道の人がいる。見かけは信心しているようでも、心は餓鬼界の人もいる。「何教徒か」を見るのではない、その人の生命が「何界か」を見るのが仏法なのです。そして、全ての人の中の仏界を開くための仏法です。世間は「差別(差異)」の世界である。仏法は「出世間」です。出世間とはあらゆる表面の差異を超えて、人間の「いのち」を見るということです。」
    そこで、自らの一宗一派が正しいことを証明するための日蓮正宗的な外道の我田引水教学から一歩離れて、この五重の相対の現代的意義について論じたいと思います。

    1.内外相対

    これまで内外相対というと、単純に「仏教とそれ以外の教え」ということとされていました。しかし、こう決め付けてしまうのは、上記のような理由からも、我田引水ではないでしょうか。
    本来の仏法の説く内道とは、すべての幸不幸の原因を自身の内面に見出す考え方のことであって、その逆に、幸不幸の原因を自分自身の生命の外に求め、環境が幸不幸を決めるという考え方のことを外道と呼ぶのです。

    この判断基準に照らすならば、SGI・創価学会に所属し、たとえ仏法を形ばかり実践していたとしても、自分自身の生命の中に幸不幸の原因があるということを信じていないならば、外道的な生き方だと言えます。
    また、世間の立場や組織の役職等にこだわって、人間を馬鹿にしたり差別するような行動をとる方のことも「外道の人」と呼べるのかも知れません。まさにそのとおりの内容が日蓮大聖人の御書に示されているのです。
    「雖学仏教還同外見(すいがくぶっきょう・げんどうげけん=仏教を学んでいても、かえって外道の考え方と同じ人がいる。)」
    どんなに長い間信心をしていても、いつもいつも「誰かの」「何かの」せいにして、愚痴の題目をあげ、人間革命ができない人もいます。SGI・創価学会のメンバーだから内道とは限らず、メンバーでない人は「外道」だと決め付けることはできないのです。

    逆に、「神的なもの(生命の尊厳)は、外ではなくて、自身の内面に存在する」と主張するキリスト教徒の友人もいます。実際、先生と対話されている世界の人間リーダーたちも、内面を見つめ、内面の変革を行おうと切磋琢磨されている素晴らしい方ばかりです。
    つまり、SGI・創価学会のメンバーであるから、ご本尊様を受持したから、幹部だから、自動的に「内道」になれる訳ではなく、あくまでも一人ひとりの内面の価値観と、それが生み出す行動が決め手であるということなのです。
    このように、五重の相対は、どこまでも自分自身の信心や境涯をチェックし、向上していくための物差しであり、バロメーターなのです。「キリスト教徒は外道、仏教徒は内道」という○×式の割り切りは、逆に池田先生の嫌いな「教条主義」と呼び、仏法と対極にある考え方ではないでしょうか。

    内道とは、「自己の内面の変革によって、環境変革・社会変革のエネルギーを生み出す実践」です。つまり、いたずらに環境を変えようとする(またはコントロールする)のではなく、自身の内面の無明(弱気、諦め、傲慢、不知恩などのマイナスの精神作用)の征服によって環境(自分自身の身体から始まり、人間関係を変え、遂には社会環境まで)を変革できるという、強い主体性を基盤とする自立した生き方なのです。
    一方、外道は、「外界や環境が幸不幸の原因と捉え、環境を征服することを第一義とする実践」です。信心していても「あの人が、ああしたから、私はこんなに不幸なのだ。」「社会がこんなだから私は不幸なのだ」という一念で祈っていてもなかなか状況が変わらず宿命転換できないのは、実は奥底の一念が「外道」になってしまっているからなのではないでしょうか。

    (以上、内外相対)

  • #3

    だいと (金曜日, 21 4月 2017 23:49)

    かなりわかりやすい内容で、読んでいて非常にためになりました!

  • #2

    笑子 (金曜日, 11 11月 2016 17:07)

    あらためて目が覚めました。

  • #1

    岡田良雄 (土曜日, 27 8月 2016 17:29)

    大変素晴らしい内容でした。信心の捉え方が良く理解出来ました。ありがとうございました。