創価学会の歴史と確信について

シリーズ【創価学会の歴史と確信】について 完結編①~⑬

 

 

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⑬=完

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グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について1/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月19日(金)10時28分50秒   通報 編集済

  【創価学会の歴史と確信】について

 

 

このテーマについては、以前、宿坊の掲示板で「グリグリ論考シリーズ」として発表しました。

 

発表のきっかけは、2017年7月発行の『法華仏教研究』第24号の中で、東洋大学の名誉教授である西山茂(しげる)氏が、

 

「戸田城聖の言うように、昭和26年の第2代会長就任が創価学会の発迹顕本であったならば、戦前の『獄中の悟達』は迹門の悟りなのではないか」

 

という論文を読んだことです。

 

ここ宿坊板で、そのことについての感想を発表し、次の第三弾を予告していたにも関わらず、中途半端で終わっていたので、それも含めて「グリグリ論考シリーズ・完結編」を発表したいと思います。

 

 

戸田先生は昭和26年5月3日、第2代会長就任の挨拶を元にして、同年7月10日付の『大白蓮華』に発表した論文「創価学会の歴史と確信」(※以降は「歴史と確信」と呼ぶ)の中で、戸田先生は、

 

「五月三日、私は会長に就任した」

「此処に於いて学会は発迹顕本したのである」

 

と述べています。

 

これを素直に読めば、この日・以前の創価学会は「迹門」で、この日・以降は「本門」と立て分けることができます。

 

そこで今回、問題にしたいのは、

 

この「学会の発迹顕本」とは、具体的には何だったのか?

本当に、「獄中の悟達」は迹門の悟りと言っていいのか?

また、戦後の「路上の悟達」は、本門の悟りなのか?

路上の悟達と密接に関係する「戦後、法罰を受けた3つの理由」とは何だったのか?

 

といったことなどを考えてみたいと思います。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について2/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月19日(金)10時34分24秒   通報

  今回のテーマを通して、私が一番訴えたいのは何かというと、

 

現在の原田学会執行部は、「創価仏法の原点」を破壊する大罪を犯し、戸田先生が法罰を受けた理由として挙げている「3つの謗法」をそっくりそのまま犯しているので、法罰は必定であり、これ以上、学会員を与同罪に巻き込まないために、即刻、退陣すべきである」ということです。

 

では、「なぜ、そう断言できるのか!」――ということを、述べていきたいと思います。

 

創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田先生の「獄中の悟達」と「路上の悟達」の2つです。

これを「創価仏法の原点」と位置付けたのは、池田先生です。

 

1974年4月号の『大白蓮華』で池田先生は、「創価仏法の原点は、いうまでもなく戸田前会長の悟達にあります。

(中略)この一点をはずして今日の創価学会の思潮の大河はない」と明言しています。

 

ここで大事なことは、

 

池田先生は、「戸田前会長の悟達にある」という表現をしていて、けっして「獄中の悟達にある」とは言っていない、ということです。

 

これは注目に値する言葉ですが、このことは、あとで述べたいと思います。

 

「獄中の悟達」については、小説・人間革命第4巻(生命の庭)に、詳しく書かれていますが、その悟達の内容は、「仏とは生命なり(昭和19年3月)」と、「我、地涌の菩薩なり(同年11月)」の2つの悟りのことです。

 

「仏とは生命なり」の悟達は、法華経の開経である無量義経の「三十四の非(あらず)」に秘沈されていたものが、実は、真の「生命」それ自体であることを突き止めたものであり、仏教の哲理を現代に蘇らせた偉大な出来事であったのですが、戸田先生独自の悟りかというと、「そうとは言えない」というのが、いまの定説です。

 

いわゆる「大正生命主義」という大正時代に起こった思想潮流の一環に位置づけられています。(「近代日蓮主義と生命論」東洋哲学研究所・刊)

 

もう一つの「我、地涌の菩薩なり」の悟達は、法華経の従地涌出品第十五を読んで「虚空会に参列した」という臨場体験を得て、

「金色燦爛たる大御本尊に向かって合掌している自分を発見」し、「我、地涌の菩薩なり」という広宣流布への使命の自覚を強めた体験です。

 

戸田先生・著作の小説『人間革命』には、次のようにつづられています。

 

「今年になって数えはじめた題目は、百八十万遍を越えている。毎朝と同じように、今朝も彼は大石寺の御本尊を心に念じながら題目を唱えているが、数が進につれて、春に降る雪を見るように、しんしんと心が落着いてきて、清々しく、ほのぼのとした楽しさが湧いてきている。

 

(中抜) 夢でもない、現(うつつ)でもない…時間にして、数秒であったか、数分であったか、それとも数時間であったか…計りようがなかったが、彼は、数限りない大衆と一緒に虚空にあって、金色燦爛たる大御本尊に向かって合掌している自分を発見した。

 

(中抜) 彼は経文通りの世界にいることを意識している。巌さんはこの大衆の中の一人であって、永遠の昔の法華経の会座に連なっているのであり、大聖人が三大秘法妙で仰せられている『此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり…』というお言葉が、彼の胸へ彫り込まれてでもいたように、この時、ありありと浮出してきた。

 

これは、嘘ではない!自分は、今、ここにいるんだ!

彼は叫ぼうとした時、独房の椅子の上に座っており、朝日は清らかに輝いていた。

 

(中抜)(おお!おれは地涌の菩薩ぞ!日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立会ったのだぞ!)

 

(中抜)よし!ぼくの一生は決まった!この尊い法華経を流布して、生涯を終わるのだ!」

 

…… 引用おわり ……

 

とあります。

 

ちなみに、西山氏は、この獄中の二つの悟りをまとめて「第1回目の回心」と呼び、戦後の「発迹顕本」を「第2回目の回心」と呼んでいます。

 

西山氏は、次のように問題提起しています。

 

「『地涌の菩薩』や『虚空会』というのは、文上の法華経の表現であって」

「これをそのままの表現で『創価仏法の原点』とすることは、今日の創価学会が文上にこだわっていることにならないか」

 

と述べ、さらに、

 

「戸田は1951年の会長就任の時に『発迹顕本』した(第2回目の回心)と言っているが、それではそれ以前の獄中の神秘体験(第1回目の回心)は、『発迹顕本』以前ということになってしまう恐れが生まれる。また、それを原点とする創価仏法も『発迹顕本』以前ということになってしまう危険性がある」と述べています。

 

これは非常に鋭い問題提起だと思います。

 

 

・・・明日につづく

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について3/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月20日(土)08時55分42秒   通報

  西山氏のいう、第1回目の回心(獄中の悟達)は、はたして「迹門の悟り」なのかというと、結論的には、戸田先生が説明する「獄中の悟達」の表現は、文上的であるとの西山氏の指摘は否定できないと思います。

 

戸田先生自身も、「法罰を受けた理由の一つ」に、出獄後の法華経講義が文上的解釈になってしまっていたことを挙げています。

 

その意味では、獄中の悟達について、「久遠元初の『悟り』とは程遠い、法華経の迹門以前のものである――」と批判した日蓮正宗の指摘も、あながち見当違いとは言えないと思います。

 

また、戸田先生が、創価学会は戦後に「発迹顕本した(1951年)」とおっしゃっている以上、西山氏が指摘するように、戦時中(1944年)の「獄中の悟達」が「発迹顕本」以前であることも否定できません。

 

まったくその通りです。

 

その意味でいえば、創価仏法の原点は、「獄中の悟達(1944年)」のみに置くことはできないと思います。

 

なぜかといえば、先ほども言った通り、戸田先生の「獄中の悟達」は、法華経の文上的な表現になっているうえ、会長就任後に著した『※歴史と確信』において、戸田先生自身、獄中の悟達は、ただ各人の自覚の問題に属することで、「いまだ学会自体の発迹顕本とはいえない」と述べているからです。

 

「※歴史と確信」によれば、牧口先生は、昭和18年の春ごろから、学会は「発迹顕本しなくてはならぬ」と口癖のようにおっしゃっていたそうです。

 

その亡き牧口先生に対して、戸田先生は、出獄の日(昭和20年)と会長就任の日(昭和26年)に、次のように「呼びかけた」と明かしています。

 

「昭和二十年七月、出獄の日を期して、私はまず故会長に、かく、こたえることができるようになったのであった」として、

 

「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、われわれは地涌の菩薩であります」と述べた上で、

 

「この自覚は会員諸氏のなかに浸透してきたのであったが、いまだ学会自体の発迹顕本とはいえないので、ただ各人の自覚の問題に属することにすぎない」(「創価学会の歴史と確信」より抜粋)と述べました。

 

――要するに、「我、地涌の菩薩なり」との悟りは、個人の自覚の問題であり、まだまだ浅い、「未究竟(※究極の悟りではない)」の悟りであったというのです。

 

これに対して、昭和25年5月、会長就任の日を期しては、次のように語っています。

 

「しかるに、こんどは学会総体に偉大な自覚が生じ、偉大なる確信に立って活動を開始し、次のごとく、牧口会長にこたえることができたのである」として、

 

「教相面すなわち外用のすがたにおいては、われわれは地涌の菩薩であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属であり、末弟子である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一の誇りとする。しこうして、日蓮大聖人のお教えを身をもってうけたまわり、忠順に自業化他にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、いっさいの邪宗を破って、かならずや東洋への広宣流布の使徒として、私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前において死なんのみであります。この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫(びまん)しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」と。

 

このように戸田先生は、外用(文上)は、地涌の菩薩であるが、内証(文底)は日蓮大聖人の本眷属であるとの自覚が、学会全体にみなぎっていることを指して、創価学会自体が発迹顕本したと宣言し、牧口先生の遺志を遂げたことを報告しています。

 

ここからすれば、日蓮正宗による「獄中の悟達は、迹門以前のものである」との批判は言い過ぎとしても、「久遠元初の〝悟り〟とは程遠い」という批判は、戸田先生の〝思い〟とも外れていないと考えます。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について4/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月20日(土)08時56分46秒   通報

  これを裏付けるように、『※歴史と確信』では、発迹顕本の前と後では、折伏の姿勢が一変したとも述べています。

 

本文を抜粋すると、

 

「昭和二十一年の秋には、創価学会の再建はひとまず緒についたかたちとなったが、いまだ人材はそろわず、信力弱く、学力は低く、とうてい一国広宣流布の大旗は掲げられなかったのである。ゆえに、折伏行を第一義の訓練にはいり、初信者をただお寺へ案内するだけの弱い折伏のすがたであった」と述べ、

 

「大御本尊様への車引き」(1949年(昭和24年)10月の第四回総会)と題する自身の指導を全文引用した上で、

 

「今一度その時の言葉を引用するが、未だ大確信のこもったものでないことは読者にはよくわかることと思う」

「以上の様に学会活動は消極的であったことはいなめないのである」とも述べています。

 

この、

「初信者をただお寺へ案内するだけの弱い」

「大確信のこもったものではない」

「消極的な」折伏活動のために、

 

邪宗ののさばるに任せていることになった、その責任は創価学会を率いる者の罪であるとも自答しています。

 

このように考えていくと、戦前の獄中の悟達は、発迹顕本前の悟りであり、文上未究竟の悟りであり、真の意味での「創価仏法の原点」は、創価学会自体が「発迹顕本」した年である1951年の「第2回目の回心」にこそ、求められるべきではないかと考えます。

 

池田先生が、「創価仏法の原点は、戸田前会長の悟達にある」とのみ言って、「獄中の悟達にある」と言っていないことは、炯眼だと思います。

 

 

では次に、西山氏のいう「第2回目の回心」とは何かを見ていきます。

 

西山氏は、戦後の「路上の悟達」については、あまり意識していなかったようですが、西山氏がいうところの「第2回目の回心」とは、戸田先生の理事長辞任(昭和25年8月)から、路上の悟達(昭和26年2月)を経て、第2代会長就任に至るまでの期間を分水嶺として、創価学会の活動ぶりが一変していくこと全体を指して「第2回目の回心(発迹顕本)」と呼んでいます。

 

ここでは、「路上の悟達」のみを「第2回目の回心」と呼び、理事長辞任から会長就任に至るまでの全体のプロセスは「発迹顕本」と呼んで、区別して論じていきたいと思います。

 

【1】

 

まず、「路上の悟達」について、『※歴史と確信』には、次のようにあります。

 

「私は、悩みに悩みとおしたのである。理事長の位置を矢島周平氏にゆずり、敢然と悩みのなかに突入したのであった。

『転重軽受法門』のありがたさ、『兄弟抄』の三障四魔のおことばのありがたさ、泣きぬれたのであった。

(中略)以上の二つの法門を身に読ましていただいた私は、このたびは路上において、『霊山一会の大衆儼然として未だ散らず』して、私の身のなかに、永遠のすがたでましますことと、拝んだのであった。私は歓喜にもえたのである。私は証のありしだい敢然立つことを決意したのである。」とあり、

 

これを受けて小説「人間革命第5巻(烈日)」には次のように描かれています。

 

「戸田はこの頃、天啓というより他にない、不思議な瞬間をもった。

――二月初旬の厳寒の日である。風はなかったが、凍りつくような寒さが、吐く白い息にみられた。

日暮れに近い午後、戸田はひとり事務所を出て、すたすたと駅の方へ足を運んでいった。空は妙に赤らんで明るく、冬にはめずらしい夕焼けである。吐く息は白いのに、彼はなぜか寒さを感じない。空はあくまでも、異様に明るく思われるのであった。まるで夏の夕空といってよい。

 

彼は、奇異な思いに駆られたのであろう。――空の遠くへ眼を放った時、彼の胸は急に大きな広がりをもったように、それがそのまま空へ空へと、みるみる広がっていくような想いがした。その途端、燦爛たる世界がにわかに彼を包んだのである。彼の脚は、平静に地上を踏んでいて、なんの変化もなかったが、彼は見た。そして瞬間に思い出した。

 

――あの牢獄で知った喜悦の瞬間を……いままた彼は体験したのである。

 

彼の生命は、虚空に宇宙的な広がりをもち、無限の宇宙は、彼の胸の方寸におさまっていた。彼は心で唱題し、おさえがたい歓喜に身をふるわせた。生命の輝くばかりな充実感を自覚したまま、遍満する永遠の一瞬を苦もなく感得したのである。

 

彼は、ふと立ちどまり、あたりを見わたした時、灰色の街路と、侘しい家並みと、背を丸くして道ゆく人々が目についた。彼は、われに還ったものの、いま全生命に知った実感は消えることなく、彼の胸の底で燃焼していたのである。そして、一切の覊絆のことごとくが、洗い流されたように、彼の頭から消えていった。彼は口には出さなかったが、心でいくたびも繰り返していった。

 

『ありがたい。なんとありがたいことか! おれは厳然と守られている。おれの生涯は、大御本尊様をはなれては存在しないのだ』

黄昏に近い、あわただしい路上である。夜学に急ぐ学生たちが、後から後から群れをなして、彼とすれちがっていった。

この日から数日後のことである。大蔵省の内意が、清算中の信用組合に通達されてきた。組合員の総意がまとまるものならば、組合を解散してもさしつかえないというのである。」

 

…… 引用おわり ……

 

 

・・・明日につづく

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について5/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月21日(日)08時46分28秒   通報

  要約すれば、

 

◆昭和26年2月初旬の厳寒の日、日暮れ時に、戸田先生が事務所を出て、駅の方へ向かっていた時、突然、燦爛たる世界に包まれ、脚は地上を踏んでいて、なんの変化もなかったが、牢獄で知った喜悦の瞬間をまた体験した。

 

◆「宇宙即我・我即宇宙」の歓喜にふるえ、遍満する永遠の一瞬を苦もなく感得し、大御本尊に厳然と守られている自身と、大御本尊をはなれては存在しない自身の生涯を自覚した、という体験です。

 

この一文を読んで感じることは、駅に向かっている時に「牢獄での体験が蘇った」とされていますが、その表現内容は獄中の悟達とは全く異なっています。

 

つまり、「虚空会」ではなく、「地上に脚を踏む」ものであり、教主釈尊を本仏とし、上行(日蓮)を上首とする「我、地涌の菩薩なり」という自覚ではなく、末法の御本仏・日蓮大聖人の本眷属としての自覚であったということです。

 

これは、法華経の文上的解釈から文底的解釈への深化、すなわち五重の相対でいえば、本迹相対から種脱相対の文底仏法への転換、釈迦(天台)仏法から日蓮仏法への飛躍を意味しています。

 

また、大御本尊との境智冥合による「宇宙即我・我即宇宙」「遍満する永遠の一瞬」を感得したとの表現は、まさに文底仏法の説く、久遠元初における「凡夫即極」の成道のあり方そのものです。

 

このように、獄中の神秘体験(第1回目の回心)と、戦後、路上での神秘体験(第2回目の回心)との関係は、

 

①「文上的表現と文底的表現の関係」

②「文上的体験から文底的体験への深化」

③「釈迦仏法から日蓮仏法への転換」

 

と捉えれば、矛盾なく説明できるし、この2度の回心(悟達)をもって、「創価仏法の原点」と位置付ければ良いのではないでしょうか。

 

 

【2】

 

さて、問題は、理事長辞任から、路上の悟達を経て、第二代会長就任に至るまでの「発迹顕本」のプロセス(道程)です。

 

獄中の神秘体験を経た戸田先生は、出獄後、学会再建の途上で「事業破綻」という憂き目に合います。

 

なぜ、あれだけ偉大な悟達を体験し、師匠のあだ討ちを決意して、学会再建を誓った戸田先生が、そんな不幸な憂き目にあったのか――。

 

しかも、戸田先生はその出来事を「法罰である」と総括し、その理由を、「立つべき秋(とき)に立たず、つくべき位置につかず、釈迦文上の法華経をもてあそぶ者として、大謗法の罪に私は問われたのである」(論文・創価学会の歴史と確信)と端的に述べています。

 

この言葉を3つに立て分けて解説すると、

 

①「立つべき秋(とき)に立たず」とは、邪宗教の跳梁(ちょうりょう)跋扈(ばっこ)を放置したことであり、「消極的な折伏」に終始したため、立正佼成会や霊友会などの新興宗教がのさばり、それらを放置してしまったということです。

 

②「つくべき位置につかず」とは、第2代会長の地位に就こうとせず、学会再建の会務より事業に傾注したことであり、仏法よりも経済などの王法を優先したということです。

 

③「釈迦文上の法華経をもてあそぶ者」とは、文上の法華経を重用したことであり、文底独一本門の教理を説いていると思いながら、教本には文上の法華経を用い、天台流の法華経解釈を重用し、文底を軽視したことです。

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について6/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月21日(日)08時47分29秒   通報

  小説「人間革命第4巻(秋霜(しゅうそう))」によれば、

 

戸田先生は昭和25年10月末、大石寺へ詣でた際、客殿での丑寅勤行が終了した未明、一同から離れて戒壇の大御本尊が安置されている御宝蔵の前へ行き、石畳の上に端座して唱題をはじめます。

 

これがいわゆる「大荘厳懺悔」――3つの大きな法罰を自覚し、懺悔する場面です。

そして、懺悔の模様が次のように描かれています。

 

①まず一つ目の「懺悔」

 

「彼の脳裡には、終戦後の一切の事件が、次々と映っては消えていった。さらに、彼の現在の如実の姿も鮮明に浮かび上がった。彼は、わが身の謗法を自ら断罪したのである。

 

――戦後五年の月日が流れてしまった。学会は、まだ磐石の基礎から、ほど遠いところにある。何故であろう。私は、昭和二十一年正月、総本山の坊で4人の幹部を相手に、法華経の講義から始めた。

 

――それというのも、戦時中のあの弾圧で、教学の未熟さから、同志の退転という煮え湯を呑まされたからだ。この私の方針が間違っていたとは、どうしても思えない。方針は正しかったが、大聖人の仏法を理解させることにおいて、私は誤りを犯したようである。

 

――御義口伝を基にして講義したつもりであったが、受講者はなかなか理解しなかった。そこで天台の「摩訶止観」の精密な論理をかりて話すと、よく解る。勢い受講者が理解したものは、大聖人の法華経ではなくて、いつのまにか天台流の臭味のある法華経になってしまったのだ。

 

――では、理解力の浅い弟子たちの罪なのであろうか。いや、教えたもの、私の罪にほかならない。私が大聖人のお叱りをうけるのは、当然すぎるほどの道理だ。なんということをしてしまったのだろう。

 

戸田は唱題しながら、ひれ伏してお詫びしなければならなかった。(中略)

戸田が一身にその罰をうけて、いま翻然と悟ったところのものは「御義口伝」への果てしない郷愁であった。

 

初代、二代、そして今、広宣流布の真実の時来たり、いよいよ大法興隆の力いでんとする時、大聖人の仏法の真髄に直達するために、初めて「御義口伝」からの直道が開かれたのである。機根は充分に熟した。七百年来のさまざまな試行錯誤は、すべて今日のためにあったといってよい。」

 

…… 引用おわり ……

 

ここでは、天台の「摩訶止観」の精密な論理をかりて話したために、受講者が理解したものは、大聖人の法華経ではなくて、いつのまにか天台流の臭味のある法華経になってしまったことを反省し、大聖人の仏法の真髄である「御義口伝」を根本としていくことを決意しています。

 

②次に二つ目の「懺悔」

 

邪宗の跋扈(ばっこ)を放置してきたことへの懺悔が続きます。

「戸田城聖は唱題しながら、なお厳しく自らを断罪しつづけた。

 

――この五年間、私は何をしたのだろうか。敗戦直後、占領軍と共にキリスト教が、怒濤のように日本列島に上陸したが、それもやがて潮のひくように去って、深い根を下ろすことがなかった。

 

――許しがたいことは、宗教の根本義を誤ったこれらの教団の横暴が、ここ数年のあいだに、さらに無数の民衆を、ただ不幸の淵に追いこんでいる現実である。しかも、宗教を企業にして、得意顔で跋扈(ばっこ)している。これは、はたして誰の罪であろうか。

 

戸田城聖は、わが心に問うた時、御宝蔵の前で慙愧(ざんき)の思いに身を顫(ふる)わせた。

 

――敗戦後の不幸のどん底にいる民衆を、邪宗教団の手に、かくも多くゆだねてしまったのは、誰の罪でもない。私の罪だ。

 

…… 引用おわり ……

 

「※歴史と確信」によれば、この邪宗の跋扈(ばっこ)を許した最大の原因は、

 

「初心者を只お寺へ案内するだけの弱い」

「未だ大確信のこもったものではない」

「消極的な」折伏の姿にあった――と述べています。

 

 

・・・明日につづく

 

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について7/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月22日(月)08時48分38秒   通報

  ③そして、三つ目の「懺悔」

 

会長就任から逃げようとする「怯懦(いくじのないこと)」への改悟と、同会のことよりも事業に傾注してきたことへの反省が綴られていきます。

 

「戸田は、創価学会の五年間の活動が、まことに不充分であったことを認めなければならなかった。(中抜)先生亡き後、会長就任を心のどこかで避けようとしてきた自分、それでいて大使命だけは自覚してきた自分、なんという矛盾に満ちた姿であったことだろう。

 

(中抜)戸田が会長就任を避けたのは、もう一つの具体的な理由があった。

牧口会長時代から、創価学会の経済的負担は、ことごとく彼ひとりで賄ってきた。

そこで戦後の再建に身を挺した時、彼はまず経済的基礎の確立を急ぎ、組織体としての躍進を第二として考えていた。

 

(中抜)いま彼は、一手段、方法にすぎない経済の問題を、宗教革命という一切の根本問題より、先行して考えていた錯誤を、感じはじめていた。

 

つまり、経済を左右するものもまた、彼の自覚した信心の使命感によることを悟ったのである。」

 

…… 引用おわり ……

 

西山氏は、「同会のことよりも事業に傾注してきたこと――」と手短に述べていますが、小説「人間革命第4巻(秋霜)」では、さらに具体的に、

 

①「経済的基礎の確立を急ぎ、組織体としての躍進を第二として考えていた」

②「一手段、方法にすぎない経済の問題を、宗教革命という一切の根本問題より、先行して考えていた」

 

ということを、「錯誤」と表現され、

 

③「経済を左右するものもまた、彼の自覚した信心の使命感によることを悟った」

 

と述べられていることに注目したいと思います。

 

この、「経済第一、信心第二」「経済が宗教や信心に勝る」という「錯誤」への反省が、「発迹顕本」へとつながっていきます。

 

そして最後に、

 

「大御本尊様、万死に値するこの戸田城聖に、もしもその資格があるとお思し召すならば、なにとぞお許しくださいまし」

 

と懺悔の言葉を述べています。

 

このように、「法罰を受けた3つの理由」を懺悔・反省した戸田先生にとって、最大の問題は、「大御本尊のお許し」が出るかどうかでした。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について8/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月22日(月)08時49分31秒   通報

  そして、迎えた昭和25年11月12日、牧口先生の7回忌法要を兼ねた「第5回定期総会」が教育会館で開催され、戸田先生は数カ月ぶりに会員の前に姿を現します。

 

8月下旬に理事長辞任の決意を固め、実質的に矢島理事長体制になっていましたが、一般会員に対して、正式に理事長・交代が発表されたのは、この総会においてでした。

 

そして総会の最後、三たび演壇に立った戸田先生は、きわめて短い講演でしたが、「仏意仏勅」について、次のように語っています。

 

「広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。われわれ凡夫の力をもってして、これを左右することなど、絶対にできないのでありまして、仏意にあらずんば、絶対に不可能であります」

 

彼は、広宣流布の実現が、末代のわれわれへの仏勅であることを明らかにし、これこそ重大使命であるとして、次のように結んで言った。

 

「たとえ、いかなる大難に遭おうとも、ひとたび題目を唱えたならば、水を飲み、草の根を食み、そのために死ぬる日があろうとも、命のあらん限り、諸君と共々に、広宣流布をめざして邁進いたしたい。これこそ、私の唯一無上の願いであります」

 

広宣流布という仏勅を、自らの使命とすることが、果たして仏意にかなうことであるかどうかが、今の彼の思い悩む問題であったのだろう。そのためには、動かすことのできない明らかな現証を、彼はひたすらに待ち望んでいたのである。(小説「人間革命第4巻(秋霜)」)

 

…… 引用おわり ……

 

ここから分かるのは、昭和25年11月の段階で、戸田先生はまだ絶対の確信には立っておられなかったということです。

そして、「大御本尊のお許し」――すなわち「広宣流布という仏勅を自らの使命とすることが仏意にかなうことの動かすことのできない明らかな現証」が出ることをひたすら待望していました。

 

その「現証」が出たのが、昭和26年2月初旬の「路上の悟達(第2回目の回心)」である神秘体験でした。

 

その中で、戸田先生は「ありがたい。なんとありがたいことか! おれは厳然と守られている。おれの生涯は、大御本尊様をはなれては存在しないのだ」と叫び、大御本尊の絶対の加護を確信することができたのです。

 

その数日後、清算中の信用組合を解散してよいとの大蔵省の内意が通達されてきたのです。

顧問弁護士すら、国法による法律的制裁は不可避として匙を投げていた事件が解決したのです。

つまり、戸田先生が刑事責任に問われることがなくなった、ということです。

 

問題が解決した根本原因は何か――小説「人間革命第5巻(烈日)」には、次のように述べられています。

 

「なにがそのような幸運な決定をもたらしたのか。――戸田には、いまそれが、はっきりと解っていた。

 (中抜)――最高の因果の法則は仏法である。一切の因果の法則の根本は仏法にある。

 

したがって、「仏法、かならず王法に勝れる」ということの確かな顕証を、戸田は身をもって知ったといってよい。」

 

…… 引用おわり ……

 

つまり、ここに描かれている、「『仏法、かならず王法に勝れる』ということの確かな顕証を、戸田は身をもって知った」という言葉は、裏を返せば「獄中の悟達」を経たあとの戸田先生ですら、まだ「仏法が王法に勝る」という絶対的な確信はなかったことを物語っています。

 

事実、戸田先生も『※歴史と確信』の中でこう述べています。

 

「なぜ、こんなに、私は会長たることをいやがったのであろうか。私自身、理解のできない境地であった。いまにしてこれを考えると、もっともなことであるとも思われる。創価学会の使命は、じつに重大であって、創価学会の誕生には深い深い意義があったのである。ゆえに、絶対の確信ある者でなければ、その位置にはつけないので、私にその確信なく、なんとなく恐れをいだいたものにちがいない。」と――。

 

乱暴な言い方をすれば、宗教や信心よりも、経済を先行して考え、第2代会長という就くべき地位に就かず、金儲けに走り、その結果、事業の失敗という法罰を受けたのではないかと考えられます。

 

もっと厳密に表現すれば、「大御本尊に対する不信」です。それで、3つの大謗法を犯し、「法罰」を受けたのです。

 

 

 

・・・明日につづく

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について9/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月23日(火)09時06分35秒   通報

  創価学会の会長に就く者は、大御本尊への絶対の確信が必須条件です。

 

西山氏は、「戸田が発迹顕本(第2回目の回心)を経験するためには、外縁の一撃が必要であった」と述べていますが、戸田先生は、自身の事業の行き詰まりという外縁を契機として、大御本尊への絶対の確信を得て、会長に就任する覚悟が決まったのです。

 

『※歴史と確信』には、次のようにあります。

 

「いまの私は不肖にして、いまだ絶対の確信はなしといえども、大聖人が御出現のおすがたをつくづく拝したてまつり、一大信心に立って、この愚鈍の身をただ御本尊に捧げたてまつるという一法のみによって、会長の位置につかんと決意したのである。

この決意の根本は前に述べたごとく、深い大御本尊のご慈悲をうけたことによる以外に、なにもないのである。

 

ここにおいて、学会は発迹顕本したのである。

(中略)この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか」と。

 

…… 引用おわり ……

 

【3】

 

さて、残る課題は、戸田先生が「学会の中心思想」であると言った「此の確信」の中身です。

つまり、学会の中心思想である「この確信」とは何か? ということです。

 

戸田先生は、その確信について、

 

「此の確信が今や学会に瀰漫しつつあることこそが発迹顕本であるまいか」

「此の確信に立って学会は広宣流布大願の大御本尊の下付を願い出た」

 

ともおっしゃっています。

 

「此の確信」とは何か――。本文に即して考えれば、先に述べたように、

 

「外用においては地涌の菩薩であるが、内証は日蓮大聖人の本眷属であり末弟子」であるという事と、「東洋への広宣流布の使徒」であるとの確信ということになるかと思いますが、私は、この表現は、一往与えて言った場合の表現であり、再往奪って言えば、大聖人と並ぶ地涌の菩薩の棟梁の自覚であったのではないかと思います。

 

実際、戸田先生は、各種会合等で、ご自身が「地涌の菩薩の棟梁である」と明言し、次のように述べています。

 

◆「地涌の菩薩の棟梁なる私と約束した眷属がかならずいて、働くことにきまっている」(九月度幹部会、昭和28年9月30日 東京・豊島公会堂)

 

◆「仏法に、外用・内証という働きがある。日蓮大聖人様の内証は、無作三身の如来である。私の内証は、地涌の菩薩の棟梁である。外用は、折伏の大将である」(第二回男子青年部総会、昭和28年12月23日 東京・星薬科大学講堂)

 

◆「このたびこそは信心をきちんとやって、日蓮が弟子としてこの世の中を渡り、これは大聖人の弟子ですが、このたびこそは広宣流布のさきがけとして、戸田城聖の弟子としてとおしたまえ。霊鷲山会にいったときに、広宣流布の棟梁たる戸田城聖の弟子であるとして、堂堂と大聖人にお目通りしたまえ、諸君。」(諸法実相抄講義、昭和31年8月8日 総本山大石寺・客殿)

 

このように、戸田先生は、はっきりとご自身が「地涌の菩薩の棟梁」であると明言しています。

 

池田先生も、「戸田前会長は、牢獄の中、御本尊のないところで、大宇宙に向かって二百万遍の題目を唱え、法華経を色読され、地涌の菩薩の棟梁としての開悟をされた。」(池田会長指導「前進」52 年6 月号)と述べています。

 

ところが、日蓮正宗の教義では、地涌の菩薩の棟梁は、日蓮大聖人お一人であり、第一次宗門問題の時、「戸田会長を地涌の菩薩の棟梁と呼ぶのはもってのほかである」と厳しい批判がありました。

 

この時、当時の執行部は、この表現は適当ではなかったので反省する、今後は歴代会長を含め、創価学会員は、「地涌の菩薩の眷属」であると呼ぶことにすると答えたのです。

 

この当時、私は中学三年生でした。

今考えると、当時の執行部は、なんと情けない、臆病者の弟子だったのかと思います。

 

この戸田先生の「地涌の菩薩の棟梁である」との大確信は、教学的にも、きちんと裏付けられるものです。

 

これについては、ここでは、そのさわりだけをお話ししたいと思います。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について10/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月23日(火)09時07分32秒   通報 編集済

  大聖人は「観心本尊抄」の末尾のほうで、

 

「当に知るべし。此の四菩薩、折伏を現ずる時は、賢王と成つて愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持す」(二五四頁)と仰せです。

 

此の四菩薩とは、いうまでもなく地涌の菩薩の棟梁である「上行、無辺行、浄行、安立行」の四人の菩薩のことです。

 

本文には、「摂受と折伏」とありますが、この四菩薩が、折伏を行じる時は在家の賢王となって現れ、愚王を懲らしめる、そして、摂受を行じる時には髪を剃り、袈裟衣をつけた僧侶となって現れ、正法を守り弘めるのだという意味です。

 

しかし、これは私たちの常識からすれば、非常に常識はずれというか、意外な一節です。

 

なぜなら、大聖人は僧侶ですが、もし「折伏と摂受のどちらを行じたのか」と問われれば、だれもが、「大聖人は折伏を行じた」と答える――そう思うからです。

 

ですから、この四菩薩が折伏を現ずる時は、大聖人のように「僧侶となって」と書いてないとおかしいことになります。

 

ところが、大聖人ご自身は、僧侶として現れるのは摂受の時で、折伏の時には、在家の賢王となって現れると明言しているのです。

 

この疑問について、大石寺・日寛は、『文段(観心本尊抄)』で取り上げ、次のように会通を加えています。

 

「問う、応に『四菩薩・折伏を現ずる時は、聖僧と成って』というべし。即ち蓮祖の如し、何ぞ賢王というや。答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く『法華折伏、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。

 

二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし』等云云。

仙予国王等これなり。今、化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。

 

或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云。」と――。

 

 

かいつまんで言うと、

 

「地涌の菩薩の棟梁である四菩薩は末法に二度出現する」としたうえで、一度目は大聖人のように僧侶となって現れ、末法に弘めるべき法体(大御本尊)を残します。これを法体の折伏、法体の広宣流布といいます。

 

二度目は、在家の賢王となって出現し、愚王を懲らしめながら、大聖人の残した法体(大御本尊)を全世界に広宣流布します。これを化儀の折伏、化儀の広宣流布といいます。

 

日寛上人は、在家の賢王が行ずる化儀の折伏、化儀の広宣流布と比べれば、大聖人のやった法体の折伏、法体の広宣流布は、折伏とはいえず、摂受の範疇に入るとまでおっしゃっています。

 

つまり、その真意は、創価学会および学会員の仏法上の位は、大聖人と並ぶ存在、ある面では大聖人を凌ぐ存在であるということです。

 

日寛上人は、その四菩薩が在家の賢王として現れる「時」についても、大聖人は、信教の自由が保証された「順縁広布の時」であると、あらかじめ、前もって判じておられるのではないか――とも述べています。

 

戸田先生も、これと同じ趣旨のことを『※歴史と確信』の中で述べています。

 

「発迹顕本せる学会は大聖人のお声のままに大活動にはいったのであるが、前述の多難はまた覚悟のうえであるが、われわれがいかに位が高いかを確信すれば、もののかずではないのである。すなわち、われら学会人の位は、大聖人より次のごとく評されている。

 

『(中抜)請う国中の諸人、我が末弟等を軽ずる事勿れ、進んで過去を尋ねれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり。(中抜)未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し。天子の襁褓に纒れ大竜の始めて生ずるが如し。蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ』(三四二頁)と。

 

この御真文を拝しえた学会人は、偉大な自覚に立ち、東洋への広宣流布を大願としたのである。

しかも、立宗七百年を迎うるにあたり、一大決意のうえ、実践運動にとりかかった会員は勇気に満ちみち、一糸乱れざる統帥のもとに、厳たる組織のうえに、足並みそろえて大折伏に行進しだしたのである。創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか。」と。

 

 

そして、最後の方では、「かかる大事の時であれば、四菩薩御出現は又絶対に疑う可きではない」と訴えています。

 

その意味するところは、「いよいよ摂受の時から折伏の時へ、化儀の広宣流布の時代がやってきのである、そして、その『時』に応じて、本尊抄の予言通り、四菩薩が在家の賢王となって現れたのが、自分であり、創価学会である」との大確信です。

 

これこそが、創価学会の中心思想であり、学会の発迹顕本の具体的な内容であると思います。

 

 

・・・明日につづく

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について11/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月24日(水)08時47分48秒   通報 編集済

  戸田先生と同時代を生きた大石寺・六十五世日淳上人は、創価学会の出現の意味と、その仏法上の位を次のように称えています。

 

 

「大聖人様の折伏も、王法の折伏とくらべますと、これも摂受になってしまう。だから大聖人様もおっしゃってござる。

 

『この四菩薩出現して折伏を行ずる時は賢王となって愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧形となって妙法を弘める』ということをお説きになっておられる。

 

だから大聖人様が衣をつけて僧の形をとっている限りは、これは何といったって摂受になる、

 

大折伏となったら大変なんですね。悪王を対治するということになると、これは王法の力になる。

 

だから『この四菩薩出現して折伏を行ずる時は』とおっしゃっておる。それは又菩薩が王法に出現なさるということになっておる」(昭和33年6月8日、第七布教区御説法、於妙道寺、『日淳上人全集』276頁)

 

――また、

 

「創価学会の折伏弘教によって、正法が全国的に流通して未だ曽て無かった教団の一大拡張が現出されつつあることであります。

此れを以て考えますと将来の歴史家に立宗七百年(=昭和27年)前は宗門の護持の時代とし、以後を流通広布の時代と定義するであろうと思われます。

 

(中抜)開宗七百年を転期として一大流布に入ったということは正法流布の上に深い約束があるのではないかと感ぜられるのであります。これを思うにつけても創価学会の出現によって、もって起った仏縁に唯(ただ)ならないものがあると思います」

(昭和31年元旦、「開宗七百四年を迎えて」、『日淳上人全集』1620頁)

 

 

以上、述べてきた戸田先生の確信と日淳上人の言説を頭に入れて、『※歴史と確信』を読み直すと、随所に、この「創価学会の中心思想」がうかがわれます。

 

例えば、戸田先生は、大聖人は「法体の広宣流布は完全に成り立たせたのであるが、未だ御本尊の流布も戒壇の建立も後の末弟に残された問題であった」と述べて、「国主此の法をたてらるれば富士山に本門寺戒壇を建立せらる可きなり」との「一期弘法抄」を引用しています。

 

「法体の広宣流布」という言葉を使っていること自体、戸田先生が日寛上人の文段(観心本尊抄)を踏まえて自身の立場を述べていることの証拠です。

 

また、「一期弘法抄」の中の「国主此の法を立てらるれば」の「国主」は、日興上人が富士一跡門徒存知事で「本化国主」と呼んでいることから分かるように、本化地涌の菩薩が賢王となって現れた姿のことです。

 

(※下記がその本文です)

 

【本文】

「日興云く、此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。

然れば則ち日興の門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫等に譲り、弟子等に付属すべからず。

同じく一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。

是れ偏に広宣流布の時、本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし」

 

 

戸田先生は、まさにご自分が「本化国主」であるとの自覚に立ち、大聖人のやり残した御遺命の「化儀の広宣流布(東洋広布)」と「本門寺戒壇の建立」を成し遂げる決意を述べています。

 

この「本化国主」の自覚こそが、創価学会の確信であり、広宣流布と戒壇建立の二つを現実のものとすることこそが、創価学会の使命であり、出現の意味です。

 

そして、この広宣流布と戒壇建立を成し遂げるための手段が、「折伏大行進」でした。

 

出獄後、発迹顕本前の迹門時代の折伏は、「初信者をただお寺へ案内するだけの弱い」「大確信のこもったものではない」「消極的な」活動であったことは、先ほど述べた通りです。

 

それに対して、発迹顕本後の本門時代の折伏は、「坊主の寝床」にすぎない寺を造ることではなく、東洋広布を実現し、本門寺戒壇を建立するという崇高な理想を目的とする「強い」ものです。

 

その理想実現のために、戸田先生は会長就任と同時に、「慈折広宣流布大願成就の御本尊」、すなわち学会本部・常住の大御本尊の下付を、時の法主・日昇上人に願い出ています。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について12/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月24日(水)08時48分34秒   通報

  さて、一度話を戻しましょう。

 

戸田先生は、昭和26年2月初旬の「路上の悟達」で大御本尊に対する絶対の確信を得て、会長就任を決意して以降、「法罰」を受けた理由の「3つの謗法」を改め、一つ一つ手を打っていきます。

 

まず、「文上の法華経を重用した」ことへの反省から、会長就任直前の同年4月に聖教新聞を発刊し、同年11月には弘教拡大の“バイブル”「折伏経典」を発行し、文底仏法を根本として言論戦を展開します。

 

また、翌年(昭和27年)の立宗七百年には、創価学会版の御書全集も刊行しています。

 

次いで「会務のことより事業に傾注した」ことへの反省から、同年5月3日に、第二代会長に就任し、広宣流布の会務に専念するようになります。これは「王法より仏法を優先した」ということです。

 

そして、「邪宗の跋扈を放置した」ことへの反省から、「身延総攻撃」「西の天理教、東の立正佼成会を撃て」等の「強折」――折伏大行進を決行します。

 

池田先生は、この戸田先生の大確信を継承して、1960年(昭和35年) 5月3日、第三代会長に就任――その時のあいさつで、「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらせていただきます!」との力強い第一声の後、戸田先生の7回忌までに300万世帯の弘教を誓い、みごとに達成(1962年昭和37年)します。

 

さらに1970年(昭和45年)には、750万世帯の大折伏を達成し、本門寺の戒壇たるべき「正本堂」を建立(1972年昭和47年)しました。

 

その発展の経過の中で、僧侶中心に広宣流布を進めていこうとする宗門と、在家を中心とした学会の衝突が起こり、二度の「宗門問題」を経て、1991年(平成3年)宗門は学会を破門し、最終的に、創価学会は独立を果たしたのです。

 

翻って、今の原田学会を見る時、2010年6月から池田先生が表舞台に立たれなくなったことを期に、戸田先生が「法罰を受けた理由」として、懺悔している「3つの大謗法」を、3つとも派手に行っていると断言するものです。

 

それを簡潔にまとめるならば、

 

①原田学会は、政治・経済・司法等の王法が仏法に勝るという「錯誤」に陥り、仏法よりも王法を、信仰活動よりも集票活動を優先させる間違いを犯しています。

 

創価学会はもはや宗教団体ではなく、政治団体と化したという指摘があるほどですが、それを批判し、幹部に逆らう会員は、冷酷にも排除し、あろうことか、司法に訴えて「黙らせよう」とする愚行を行っています。

 

②原田学会は、2014年(平成26年)の会則変更で、戸田先生の悟達と不可分の関係にある「大御本尊」を受持の対象にしないと宣言し、創価仏法の原点を破壊しました。

 

その上、身延ずりの教学にかぶれ、日蓮本仏の文底仏法を捨て、釈迦本仏の文上仏法へと回帰しようとしています。

 

2015年(平成27年)11月には、勤行要典の「ご祈念文」を新たに改定し、従来、「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」としていたところを、「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に南無し、報恩感謝申し上げます」に変更しました。

 

しかし、これでは、身延日蓮宗などの一致派と何ら変わりがありません。

人法一箇の文底・日蓮仏法を捨て、ついに、法先人後の文上・釈迦仏法に転落したと言わざるをえません。

 

③原田学会は、聖教新聞等に邪宗まがいの「謗法広告」を平気で載せ、自公連立維持の名のもとに、日本会議など国家神道の復活を目論む勢力に与同して、その跋扈を許し、日本全体の右傾化を助長させています。

 

そもそも、戸田先生の獄中の悟達は、牧口先生とともに国家神道の象徴である神札の受け取りを拒否し、投獄されたことから始まります。

 

獄中で、何度、返本しても戻ってくる差し入れの「法華経」に、不思議な縁を感じ、読み始めたところから悟達に至りました。

 

日本会議等に与同する今の原田学会は、神札を受諾したも同然であり、牧口、戸田・両先生に対する許しがたい師敵対であり、大謗法であると断じるものです。

 

 

グリグリ論考シリーズ【創価学会の歴史と確信】について13/13・完結編!  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2021年 3月24日(水)08時49分13秒   通報

  「創価学会仏」という集団力への崇拝も、神国日本を唱える勢力の「全体主義(ファシズム)」と何の変わりがあるでしょうか。

 

このように、日本会議や統一教会、幸福の科学などの邪教カルトと一緒になって、自民党政権、安部・菅内閣を支えている原田学会は、邪宗の跳梁跋扈を放置する大謗法を犯していることは明らかです。

 

この原田学会が、厳しい法罰を受けないとすれば、大聖人の仏法が嘘になります。

 

案に違わず、昨年から続くコロナ禍の影響で、今や学会員全員が、学会活動停止・会館出入り禁止・会員接触禁止という、諸天からの治罰を受けています。

 

また、少年部書記長の要職にあった本部職員の連続放火による逮捕事件や、国会議員・最高幹部による高級クラブ・キャバクラ通いの発覚で政界引退、本部職員退職に追い込まれる事件が続くなど、公明党・創価学会の信用は地に落ちました。

 

執行部の面々らに個々の別罰が下ることは必定です。

 

しかし、さらに恐るべきは、「総罰」です。

仏法は体、世間は影――。本体である仏法内の乱れは、そのまま社会の世相として現れます。

 

池田先生が第一線を引かれ、執行部の横暴が始まった2010年夏以降の日本は、大地震や異常気象が相次ぎ、他国侵逼の危機が迫るなど、三災七難の様相を呈していることは、だれの目にも明らかです。

 

王仏冥合すれば、「吹く風枝をならさず雨壤を砕かず」の理想的な世界が現出すると信じて、多くの学会員が折伏に、選挙にと打ち込んできましたが、公明党が与党になっても、学会員の国土交通大臣が誕生しても、災難は収まるどころか、ひどくなるばかりです。

 

これは、ひとえに原田学会が、創価仏法の原点である「戸田先生の悟達」を完全に否定し、大御本尊を冒涜した上、王法優先、文上回帰、邪宗の跋扈放置の3大謗法を犯しているからにほかなりません。

 

――如かず、彼の万祈を修せんより、この一凶を禁ぜんには――

 

創価仏法を破壊する“魔僧の集団”と化した原田学会を糺し、執行部を総退陣させる以外に、この難を止める秘術はないと確信するものです。

 

私たちは、ネットなどを通して、創価仏法を破壊する原田学会の悪を糺し、世界の同志と連帯を深め、真実の創価仏法の在り方を示していこうではありませんか!

 

 

― おわり ―