創価思想の永遠性と偶像化

【創価思想の永遠性と偶像化】1/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時06分15秒

  法華経はいつ・どこで編集され、完成したのかを探ってみると、

法華経本文の内容から考えられることは、仏像の造立と光明の荘厳、また阿弥陀仏が説かれているので、

 

おそらく光明思想の影響が顕著になった紀元一世紀後半以降で、しかも阿弥陀経の

成立が紀元百四十年ごろ(「浄土三部経下」岩波文庫)とされているので、

 

法華経成立は二世紀後半以後だと考えられます。

 

紀元前後の仏教界の様相は、大乗仏教が小乗仏教を批判し、

小乗仏教の担い手である出家の弟子を成仏できない存在として排斥し、

 

大乗仏教は菩薩の生き方を強調していました。

 

しかし、声聞・縁覚を排除し、菩薩道を強調するだけでは

逆に声聞・縁覚を差別することになり「万人が菩薩となって成仏を目指すべきである」とする

大乗仏教の理想と精神は実現できないことになります。

 

そこで「声聞・縁覚・菩薩」の三乗を包摂し、万人が仏乗を目指すべきであるとして、

一切衆生に平等の成仏の道を説いたのが法華経なのです。

 

つまり法華経は小乗と大乗の「対立」を克服することを意図して編纂された経典ではないかと考えます。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】2/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時07分0秒

  法華経を説くにあたり、最初に説かれたのが「序品第一」ですが、

ここに描かれる内容は説法の舞台(霊鷲山)と、その会座に集まる大衆(九界の衆生と怪物の類等)が紹介され、

釈尊が現した瑞相が語られています。

 

そしてその瑞相を見た弥勒の「疑問」を文殊師利に質問し、

文殊師利が弥勒の質問に答えるという構成になっています。

 

釈尊は大衆の前で大乗経を「無量義」と名づけ、仏が護り念じてきた教えを説きます。

その後、釈尊は無量義処三昧に入ると天から曼荼羅華が降り、世界が六種に震動したと述べられます。

 

さらに人々の耳目を驚かす大瑞相がその後に起こります。

 

そこには釈尊の眉間の白毫から光を放ち、東方の一万八千の世界を照らし出し、

それぞれの世界には法を説く仏をはじめ、地獄から菩薩までの九界の衆生が映し出されていることが描かれています。

 

また、仏の入滅後には仏の遺骨を供養するために、七宝の宝塔を建てている姿も記載されています。

 

これらの瑞相にはさまざまな意義が秘められていると思うのですが、

弥勒菩薩もこの瑞相の意味を文殊師利菩薩に質問しています。

 

この序品第一のポイントは「文殊と弥勒の対話」にあると考えます。

 

前置きが長くなりましたが、

 

序品第一に説かれている文殊と弥勒の対話から

「創価思想の永遠性と偶像化」について、考えていきたいと思います。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】3/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時07分43秒

  まず序品第一のなかで弥勒菩薩は、釈尊の現した瑞相を見て

 

「今、師匠は神通変化の姿を現した。いったいどのような因縁によってこの瑞相があるのだろうか。

そして今、師匠は三昧に入られた。これは不可思議で稀有のことである。

この事の意味を誰に聞けばいいのか。誰がこの疑問に答えられるだろう」、

 

そしてまた

 

「文殊師利菩薩はこれまで過去の無量の諸仏に供養してきたのだから、

きっとこの稀有の様相を見たであろう。まさに彼に問うべきだ」といって、

 

弥勒は会座に集う大衆の疑問も含め代表して文殊師利に質問します。

 

「文殊師利よ、どのような因縁があって仏は瑞相である神通の相を現されたのか。

師匠が偉大な光明(眉間の白毫の光)を放って東方の一万八千の国土を照らし、

すべての仏の国土が荘厳であることが見えたというのはどういう意味なのでしょうか」と。

 

弥勒にこう問いかけられた文殊師利は何と答えたのでしょうか。

 

それは

 

「私が思うには、今こそ仏は大法を説き、大法の意義を説くでしょう。というのは、

私が過去の諸仏においてこのような瑞相を見た時、諸仏はこの光を放ち終わってから大法を説かれました。

 

だから今、釈尊が光を現されたのも、過去の諸仏と同様に一切世間が信じ難い法を

衆生に聞かせ、知らせたいと思うからこそ、この瑞相を現されたのです」と答えます。

 

そして文殊師利は過去の諸仏(過去仏)の例として日月灯明如来(仏)の存在を示しました。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】4/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時08分30秒

  文殊師利が語った「日月灯明仏」の話を整理すると、

 

①日月灯明仏は「声聞・縁覚・菩薩」を求める者にはそれぞれの機根に応じて、

  四諦・十二因縁・六波羅蜜の教えを説いた。

 

②日月灯明仏という同じ名前の仏が二万、存在した。

 

③最後の日月灯明仏に八人の王子がいて、父が出家して仏の悟りを得たのを聞いて、

  彼らも出家し仏道修行に励んだ。

 

④日月灯明仏は、大乗経を「無量義」と名づけ、仏が護り念じてきた教えを説き、

  その後、無量義処三昧に入った。

 

⑤その時、天から曼珠沙華などが降って、大地が六種に震動した。

  また仏が眉間の白毫から光を放って東方の一万八千をあまねく照らし出した。

  それぞれの仏土では荘厳な姿をした諸仏が法を説き、菩薩や声聞が修行に励んでいた。

 

⑥日月灯明仏は、弟子である妙光菩薩に対して、大乗経を「妙法蓮華」と名づけ、

  仏が護り念じてきた教え(法華経)を六十小劫の間、説いた。

 

⑦日月灯明仏は、その説法の後、大衆に向かって「私はあなたたちの諸法実相の義を説いた」と

  語り、その日の夜半に涅槃に入ると述べた。

 

⑧日月灯明仏は、徳蔵菩薩に成仏の記別を与えた後、夜半に入滅した。

 

⑨妙光菩薩は、日月灯明仏の滅後、妙法蓮華経を受持して八十小劫の間、法(法華経)を説いた。

 

⑩日月灯明仏の八人の王子たちは妙光菩薩を師匠として修行し成仏した。

  最後に成仏した者を燃灯仏という。

 

⑪妙光菩薩の弟子の求名菩薩は、利害に執着して経典の内容も理解できなかったが、

  過去世に善根を植えた因縁のゆえに諸仏に遭い、諸仏を供養して今、釈尊に出会った。

 

⑫その求名菩薩は今日の弥勒菩薩であり、妙光菩薩は今日の文殊師利菩薩である。

 

というものです。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】5/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時09分11秒

  この文殊師利菩薩が語る日月灯明仏の話は、序品第一の「散文と偈頌」でほぼ同じ

内容ですが、偈頌のほうがより詳細で踏み込んだ内容になっています。

 

この偈頌の内容を見ていくと方便品以降の法華経全体の内容と密接に関連していることがわかります。

 

ここで語られていることは、

 

まず日月灯明如来という同じ名前を持つ仏が二万いたという表現は、言い換えれば、仏と同じ境涯、

仏と同格者が多数存在するとも取れるし、集団全体を一つの仏として表現しているとも取れます。

 

これは宇宙において仏は普遍的に存在するという大乗仏教の仏陀観を示しているのだと思います。

 

また

 

日月灯明如来は「声聞・縁覚・菩薩」の境地を求める者のために、

それぞれの機根に応じて四諦・十二因縁・六波羅蜜の教えを説いたとされていますが、

 

これも方便品で釈尊が三乗を化導するために、それぞれ機根に応じて教えを説いてきたことに符合します。

 

つまり、機根に応じてさまざまな方便の教えを説くという化導方式は、

日月灯明如来も釈尊も同じであるということです。

 

さらに、

 

八人の王子が妙光菩薩の教化によって成仏し、そのあと彼らが

人々の仏法指導者となって衆生を救済していくとされていることは、

 

仏弟子が救われる存在から救う存在へと変化していくことを示しています。

 

弟子が仏と同じ心で、仏が説いた法と同じ法を説いていく――まさに如是我聞です。

 

諸経の王と謳われた法華経は、冒頭から「師弟不二」の在り方を強調している経典なのです。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】6/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時09分47秒

  池田先生は

 

「『如是我聞』の心とは『師弟不二』の心です。それが仏法伝持の極意です。

一切衆生を救おうとする仏の一念と、その教えを体得し弘めようとする弟子の一念が、

響き合う『師弟不二』のドラマ――それが『如是我聞』の一句に結晶している」

(法華経の智慧一巻八十九頁)

 

と述べられています。

 

このように法華経序品第一を見ていくと、序品のポイントは過去の仏である日月灯明如来が、

白毫の光で世界を照らす瑞相を示したあとに法華経を説いたことから、

 

同じ瑞相を示した釈尊も先仏(日月灯明如来)と同様に法華経を説くであろうと予言したことにあります。

 

つまり、法華経は釈迦仏だけが説くものではなく、多くの仏が説く普遍的な教えであるとする見方です。

 

実際に日月灯明如来だけでなく、大通智勝仏・威音王仏・不軽菩薩なども、法華経を説いたとされているし、

戸田先生は正法・像法・末法という三時においてもそれぞれの法華経(釈尊・天台・日蓮)があると述べられています。

 

私たちに置き換えて言えば、

 

師匠の心を我が心とし、末法の経典(御書)と創価三代の指導を如是我聞して説く人は、

大聖人と同じく、創価三代の師匠と同じく法華経の行者であり仏法指導者に成り得る存在であるということです。

 

幹部だから指導できるというのではなく、師匠の心を心としているか否かです。

 

この道理がわからない人が仏を偶像化していくのだと思います。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】7/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時10分22秒

  大聖人は

 

「仏教をならはん者、父母・師匠・国恩をわするべしや、此の大恩をほうぜんには

必ず仏法をならひきはめ智者とならで叶うべきか」(御書二九三頁)

 

と訴えました。

 

仏法を習い極めようとしない人間が、

どうして親の恩、師匠の恩、国の恩を報ずることができるのでしょうか。

 

智者とならないでどうして民衆を幸せの軌道に乗せていくことができるでしょうか。

 

信心の基本は「信・行・学」です。

この三つの科目を極めようとしない人間が、どうして先生亡きあと

「山本伸一」の自覚に立って広宣流布をしていくのでしょうか。

 

池田先生が会員一人ひとりを大切にするのは、役職に関係なく誰もが「信・行・学」に徹すれば、

未来の仏法指導者に成り得る尊貴な存在と見ているからであるし、

 

幹部に厳しい態度を示すのは、指導者として仏法を習い極めようとしない

甘ったれた姿勢(一念)があるからだと思います。

 

過去の仏も、今の仏も、未来の仏も仏法を習い極めて

「信・行・学」に徹し抜くからこそ、仏の永遠性が立証されるのだと思います。

 

この先仏と今仏をつなぐのが文殊師利と弥勒なのです。

 

しかもどちらか一方だけを登場させるのではなく、二菩薩(文殊と弥勒)を並べ

質問者と答弁者の役割をさせているところに、常に客観性を重視する法華経作成者の態度がうかがえます。

 

また、名誉や利益に執着していた「求名」を弥勒の前身とし、求名の師である「妙光」を文殊師利に当てはめ、

弥勒を文殊師利に対する質問者にしていることは、

 

法華経が弥勒信仰をあえて貶める立場であることを物語っています。

 

前回の論考【地湧の菩薩と動執生疑】でも触れましたが、

 

法華経は説かれる冒頭から、徹底して「師匠根本・師弟不二」の経典なのです。

 

 

【創価思想の永遠性と偶像化】8/8  投稿者:大仏のグリグリのとこ  投稿日:2016年 6月 5日(日)12時10分58秒

  創価三代の偶像化を止めるには、弟子がもう一度、

信心の基本である「信・行・学」に徹し抜くしかありません。

 

本来、法華経は如是我聞して誰もが説ける法門です。

 

私たちで言えば、会長だけが、上位役職者だけが、池田先生の指導の真意を説く存在ではないのです。

 

学会員の誰もが「信・行・学」に徹し抜いていけば、

師匠の心を、指導の真意を、万人に説いていける尊貴な存在なのです。

 

また、そうなるために教学という武器があるのだと思います。

私たちが戦う武器を持てるのは教学だけです。

 

教学を極め、学び抜けば必ず答えは見つかります。

 

組織信仰に縛られず、幹部崇拝信仰に縛られず、自分の力で考え抜く信仰者になれるのです。

 

もう一度、私たちが「山本伸一」の自覚に立って、剣豪の如き教学の学業を成し終え、

それぞれの地域で「弱い者を守る盾」となって、立派に使命を果たしていきたいと思います。

 

そして、いかなる権威権力にもその智慧で抗(あらが)い、道を切り開く存在でありたいと決意します。

 

またそれが池田先生の望まれている本門の弟子群像だと確信します。

もはやこれを弟子が実行する以外に仏の永遠性は存在しないと考えます。

 

池田先生は「大切なのは『智慧』である。智慧を体得することです。

・・・・二十一世紀を幸福にするには『智慧の世紀』とする以外にない。

 

そして知識は伝達できても、智慧は伝達できない。自分が体得するしかないのです。

実はそこに、法華経が『師弟』という全人格的関係を強調する一つの理由もあるのです」

(法華経の智慧一巻二十四頁)

 

と訴えました。

 

この師匠の指導に対して、弟子が決意を表明する場面が「法華経の智慧」に記載されています。

 

それを最後に記して終わります。

 

――私どもも、これを通して、法華経に関して、さまざまな角度から勉強をしていきたい。

 

また、勉強していかねばならない。これが二十一世紀に向かう若き指導者たちの真髄の哲学である、

 

こう言えるよう頑張ってまいります。(法華経の智慧一巻二十七頁)――

 

 

おわり

 

宿坊の掲示板より

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