竜口「頚の座」について
【竜口「頚の座」について】1/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時31分56秒
「頸の座」についてグリグリの意見を述べさせていただきます。
その前に、日蓮大聖人は、どうして何回も弟子に「頸の座」の出来事を話すのでしょうか。
それを通して何を弟子に教えようとしたのでしょうか。
これを皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
まず、虹さんが提示した「種種御振舞御書」ですが、
これは大聖人自らの生き方と思想を主体的に述べたものであり、大聖人の「自伝」の形になっています。
およそ、教祖と言われる人の伝記や言行録は弟子たちによって編集されまとめられることが多いのです。
孔子や釈尊においても、キリストにおいてもそうでした。
そのことを考えると、
十三世紀に日蓮大聖人自らが残した「自伝」ともいうべき「種種御振舞御書」は注目されるべきものです。
現代においては、池田先生もまた、その方程式に則り、
先生自身のことを自ら語り、私たち弟子に残してくれました。
「開目抄」において
「法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし」(二三〇頁)とまで言い切っています。
言い換えるならば、大聖人の生き方は、
自分自身の事を弟子たちに提示していく生き方だったように思います。
ある意味で、大聖人にしても、池田先生にしても、
弟子に示したものは、その教義としての「法」よりも前に、
日蓮という、また池田大作という「人間」の振る舞いそのものだったとさえ思えます。
大聖人が「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(一一七四頁)と断言した以上、
大聖人自身が「自伝」を編むことは、当然だったのだと思います。
というより、自伝を残さない方が不自然だといえます。それは池田先生も同じです。
この「種種御振舞御書」全体のテーマも「法華経の行者」です。
この御文の結論部分もダメ押しのように「日蓮房は法華経の行者にはあらざるか」という詰問を投げかけています。
つまり、自らの振る舞いを示した上で、最後の判断を弟子たちに委ねるように結ばれています。
大聖人には、どうしても自らの生き様を語る必要があったのです。
【竜口「頚の座」について】2/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時32分42秒
私は、虹さんに、
>一つの提案ですが、「頚の座」を今に置き換えることは不可能なので
>逆に、なぜ大聖人は何回も何回も「頚の座」の事を語るのでしょうか。
と呼びかけました。
「置き換えることは不可能」と表現したのは、
実際に現代において法華経のために死刑になることはないからです。
だからと言って、凡夫の私たちにとっての「頸の座は・・」と考えることも有意義なことではあると思います。
しかし、私の関心事はそこにはありません。
それは、大聖人が「頸の座」の光り物や異変の出来事を、
みだりに語ることを明らかに避けていることを示した御文があるからです。
御書には
「去年九月十二日御勘気をかほりて、
其の夜のうちに頭をはねらるべきにてありしが、いかなる事にやよりけん」 (一一二〇頁)というものです。
これは、四条金吾に送った手紙ですが、
ここに「いかなる事にやよりけん」と一見当日(頚の座)の出来事に対して何も知らないような書きぶりです。
四条金吾もその場に居た当事者なのだから知らないはずはありません。
このような表現は「反語法」といいます。
つまり、断定を強めるために、言いたいことを逆に言い、かつ疑問の形にした表現です。
だから「いかなる事にやよりけん」は、何があったのだろうという疑問文ではなく、
何があったか金吾さんはお分かりですね、という意味が隠された反語となっています。
【竜口「頚の座」について】3/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時33分25秒
ではなぜ大聖人は、竜口の「奇跡」を声高らかに語ることをしなかったのでしょうか。
それは、弟子がこの「奇跡」だけに目が奪われて、
仏法の本質から目をそらされてしまうことを恐れ、日蓮大聖人の神格化への危惧があったためだと思われます。
実際、大聖人の「立正安国論」も、他国侵逼難や自界叛逆難という二つの予言ばかりが強調されて、
内容が問題にされることは今も昔も少ないように思います。
大聖人にとって予言に価値があるのではなく、価値があるのは立正安国の法理です。
「奇跡」というものは、本質を見失わせる働きがあると思います。
だから語るなというのではなく、語るには細心の注意をして語る必要があるということです。
事実、末弟の日蓮教団は竜口の「頸の座」を神秘的に伝え、日蓮大聖人を神格化してきました。
竜口の「頸の座」は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。
まず、結論から言うと「頸の座」のことを語る、大聖人の真意は
「不退転の境地に弟子よ立て ! そして師匠亡き後の広宣流布を頼む」ということだと思います。
だからこそ、あの極寒の地で、過酷な環境にも関わらず「開目抄」や「観心本尊抄」を弟子たちのために残されたのだと思います。
そう考えると、不退転の信心の境地に立てた「出来事(体験)」は、
皆さんはすでにお持ちで、もう確立しているのではないでしょうか。
つまり、皆さんにとっての「頸の座」は、
何があっても信心はやめない、どんなことがあっても人生の師匠は池田先生である、
という不退転の信心に立脚できた「出来事」だと思うのです。
しかもそれは、会員それぞれ千差万別です。
だから、これが「現代の頸の座」だと断定することはできないと思います。
それを踏まえたうえで、
何のために、日蓮大聖人や創価三代会長が、受難に耐えてきたのか――。
むしろ、この師匠の到達点を、弟子の出発点として行動しなければ何の価値も生まれないと思います。
問題は、その不退の境地に立つことができた「感謝と歓喜と法理」を、
どう後輩や、後継の人に伝持していくのか、ということではないでしょうか。
【竜口「頚の座」について】4/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時34分11秒
私も創価学会の誉れある偉大な幹部の称号を、
池田先生から拝命されたとの自覚に立って戦っています。
青年部時代から今日に至るまで何十年もの間、毎日毎日、御書を研鑽し、
仏敵と戦い、組織悪と戦い、上の幹部に嫌われ干されたりしても、会員を激励し、
会員と共に悩み、後輩の人材育成を止めたことはありません。
そして一生懸命、池田先生に恩返しがしたいとの思いで唱題を重ねています。
日蓮大聖人は、種種御振舞御書のなかで弟子に呼びかけています。
「日蓮悦んで云く、本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ・・・・提婆菩薩は外道にころさる」(九一〇頁)
ここで大聖人は、身命におよぶ受難があることは、最初から覚悟の上で始めたことだと言っています。
むしろ受難を喜びとして受け止めたのです。
自らが不退の境地を示し、弟子たちの迷いを打ち破り、激励しているところです。
そのうえで、雪山童子などの経典に説かれる殉教者の人々を挙げて、その系譜に連なる誉れを示しました。
この何気ない一言の中に、大聖人がどのような生き方をしてきたのかが伺えます。
また、
「さる文永八(一二七一)年九月十二日、幕府の処分を受けた。
その時の日蓮逮捕の様子も尋常ではなく、法を無視したものといえる。
その有様は、平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に銅丸を着せて、自分は烏帽子をかぶって、
眼を怒らせて声を荒げていた。これはただ事とも見えない光景であった」(九一一頁)と述懐しています。
幕府は、大聖人の草庵を襲い、未曾有の迫害を加えました。
しかも武器一つ持たない一人の僧侶を逮捕するのに、
わざわざ「平左衛門尉が大将となって数百人の兵士に」とあるように、
今でいえば防衛省や警察庁の副長官が直々に指揮をとって兵士数百人を率いて、大聖人を捕まえに来たというのです。
長官は執権・北条時宗が兼務していますから、平左衛門尉は副長官にあたります。
しかし、実質の侍所のトップは平左衛門尉です。
そのトップが動くからには、人数も半端ではなかったと思います。
「数百人」と表現されたのも、大げさに言ったものではないでしょう。
【竜口「頚の座」について】5/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時40分14秒
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さらに
「日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろをもひまうけたりつる事はこれなり。
さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし」(同頁)
――日蓮はこれを見て思った。
「常日頃、念願していたことはこれである。なんと幸せなことだろう。
法華経のためにこの身を捨てる事ができるのだ。臭い凡身の首を斬られるならば、
砂と黄金を交換し、石で宝珠を買い求めるようなものではないか」――と。
そして
「今夜頚切られへまかるなり、この数年が間願いつる事これなり。
此の娑婆世界にしてきじとなりし時はたかにつかまれねずみとなりし時はね●にくらわれき。
或はめこのかたきに身を失いし事、大地微塵より多し。
法華経の御ためには一度だも失うことなし。
されば日蓮、貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。
今度、頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。
其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり」(九一三頁)
――今夜、日蓮は首を斬られに行くのである。この数年の間、願ってきたことはこれである。
この娑婆世界においてキジとなったときはタカにつかまれ、ネズミとなったときにはネ●に食われた。
あるいは妻子を守るために命を失ったことは大地微塵の数よりも多い。
だが法華経のためには、ただの一度も失うことがなかった――と。
この二つの御文は「法華経身読」の歓喜と殉教を教えられたところだと思います。
これは単なる「殉教思想」などという軽いものではありません。
殉教とは、教えに殉ずることであり、殉ずるとは、死ぬことです。
しかし、法華経の教えに殉ずるチャンスというものは、願っても、そう簡単に巡り合えるものではないでしょう。
反社会的な振る舞いが招いた災いならば、世間にはいっぱいありますが、
そういうものは法華経とは無縁のものですから殉教とは言いません。
それらは「鷹にあった雉、ね●にあったねずみ」と、さほど変わらないと思います。
【竜口「頚の座」について】6/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時41分12秒
大聖人も本文の中で、
「其の上、身に一分のあやまち」が無いと述べられているし、
実際、大聖人は過激な行動はまったく行ってはいません。
ただ法華経を宣揚するが故に受けている法難です。
だからこそ「この数年が間、願いつる事これなり」という感慨の言葉が出てきたのだと思います。
処刑場に向かう大聖人は、決して死なないで済むとは思っていなかったと思います。
しかし、自らが死ぬことでこの国に法華経が根付くならば、そこから次の大きな展開が起こってくると確信していたのではないでしょうか。
殉教という言葉は、誤解されることが多いのですが、
決して死を賛美しているのではありません。死に急ぐことでもない。
殉教は、大義や信念に生きることであり、
人の志や精神性を最大の価値として生きることでもあるのです。
言い換えれば、精神を大切にして真っ直ぐに生きていく中で、稀に出会うのが殉教なのです。
池田先生も青年時代、戸田先生のもとで弟子の手本を後世に残そうと殉教の道を選びましたが、
師匠に「それは困る」と言われ、師匠の厳命に従いました。これは皆さんよくご存知だと思います。
ともあれ、殉教とは真っ直ぐに生きた証でもあります。その手本が創価の源流である牧口先生なのです。
また、殉教者を讃美することは、
死の讃美ではなく、志をもって真っ直ぐに生きた人間への生き方を、讃美することなのだと思います。
大聖人が表現した「キジとタカ」「ネ●とネズミ」の譬えは、
人生の質、生きることの質を問え、と教えられているのではないでしょうか。
そう考えると、大聖人の
「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(一五九六頁)という言葉が、鮮明につながるのです。
しかし、ちょっと角度を変えて「殉教」を考えてみたいと思います。
普通、殉教の話というものは、多くの会員にとっては、そのまま受け入れられる話ではありません。
むしろ迷惑な話かも知れない。
学会に入会して来た会員たちは、心の安心や自分の成長、また悩みの解決を求めて入会したのでしょうし、
それは厳しくいえば、家内安全、無病息災、所願成就のみを願う普通の善男善女となんら変わらないと思います。
このような人々に、殉教の話が素直に受け入れられるためには、信仰者自身の信仰観が
「癒し・安心・問題解決」の次元から、質的な昇華が求められなければ、殉教の話など素直に受け入れられるとは思えません。
質的な昇華というのは、端的に言えば「死」と正面から向き合うことではないかと思うのです。
【竜口「頚の座」について】7/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時42分4秒
「生も歓喜、死も歓喜」とは、池田先生の達観ですが、口まねだけなら誰にでも言えます。
これは私の体験に基づくものですが、詳しい内容は避けたいと思います。ご了承ください。
私は青年期、一〇〇%「死ぬ」運命でした。もちろん自分の悪業ゆえです。
恐怖の極限状態ではありましたが、死を眼前にしているにも関わらず、私はやけに冷静でした。
命乞いもしませんでした。
その時、どうせ死ぬんだから、題目を上げ抜いて死のうと決めたのです。
そして三日間一睡もせずに題目をあげて死を待っていました。
しかし、そこで不思議な体験をしたのです。
結果的に今生きています。
報恩抄に「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(三二九頁)とありますが、
この日蓮大聖人の民衆を慈しむ大慈悲の心に振れた時、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
その不思議な体験が自身の原点となりました。
話は、変わりますが、多くの死がある中で、自分がある種の死に方を選択するということは、
自らの死というものを考え、死と向き合わねばできないことだと思います。
つまり「殉教の覚悟」とは「死に方」の選択です。
しかし普通の会員は、誰もが死と隣り合わせに生きているのに、自らの死は考えないものです。
ただ、誤解してほしくないのは、自殺や暴発的な生き方は、
死と向き合うことからの逃避であり、死に方の選択とは違います。
どんなに邪魔をされ、迫害されても、一歩も後へは引かない、また引けない。
この身が死のうとも、自らの信心だけは破られない。
このような強い生き方は、逆に自分自身の死と向き合って初めて生まれてくるものではないでしょうか。
【竜口「頚の座」について】8/8 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2014年12月31日(水)10時42分55秒
殉教の覚悟というのは、信念を貫き通した最も誇り高い生き方なのだと思います。
そして、それを可能にするのは、師匠の生き方への共感と共鳴から起こると確信します。
殉教の精神というものは、決して一時的に燃え上がるようなものではなく、
もっとも冷静な判断のなかから出てくるものだと思うのです。
だからこそ池田先生は、殉教の先師を宣揚し、さらに師たることを自覚した池田先生は、
自らの生き方や師弟のあり方を、自らの体験を通して弟子に語り続ける必要があったのだと思います。
御書には「先、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(一四〇四頁)とあります。
まず、死という問題を先に習いなさいと教えられています。
仏法は道理であり、因果の理法です。
極悪は地獄、極善は成仏――これは当たり前の道理です。
そして、自分の幸福、社会の繁栄といっても、生老病死という四苦の解決抜きでは成り立ちません。
本来、何らかの宗教に入会する動機は、この問題解決のためだったのではないでしょうか。
生に驕る人は死の不安を心密かに抱き、
若さに驕る人は老いを恐れ、
健康に驕る人は病に驚く。
生老病死は、人生の根本問題にも関わらず、それを直視することすら避けている人があまりにも多いのが現実です。
生老病死が人生の実相であるならば、そこから逃げることはできないし、
逃げていては、決して真の幸福に至ることはないのです。
日蓮大聖人は、「頸の座」という出来事を、弟子たちに繰り返し語ることで、
師に殉ずる「師弟不二の人生」を弟子たちに全うさせたいと思ったにちがいありません。
では、法華経の行者という生き方を、弟子の私たちが継承していくためにはどうすればいいのでしょうか。
それは根源の師たる日蓮大聖人や、人生の師匠である池田先生の生き方を、
自らのうちに絶えず問い返していくことであると思います。
そして大聖人が実践の規範として示した宗教の五義を、具体的に自らに当てはめてみることも必要ではないでしょうか。
最後に、池田先生が「三・一六 広宣流布記念の日」四十周年(一九九八年)の時に詠まれた一句を記して終わります。
殉教の
決意で恩師を
護らむと
血潮は燃えたる
偉大な この日よ
― 完 ―
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