創大祭 田邊雅章さんの講演
転送メールより。
10月14日に創大祭に行った際に、ヒロシマで被曝された田邊雅章さんの講演を聞きました。その体験を一人の女子部が発信されましたので、我らが同志と共有いたします。先生の叫びのとおり、核兵器は「絶対悪」です!絶対に人類の手で葬らねばなりません!
…
"ヒロシマ"になる前は ~映像編~
昔教わった。
「ヒロシマ」と「広島」は違うと。
「広島」なら他の地名となんら変わりはないが、「ヒロシマ」とカタカナで書くと、爆心地としての意味を持つ。
私が知っている風景はヒロシマと、今の広島。
それで全部だと思っていた。
ヒロシマの前の風景がどんなものだったのかなんて、
考えたこともなかった。
*****
職場の大先輩からのお誘いで行った学園祭。
楽しそうなバンド演奏や、模擬店の美味しそうな匂いがする中で、「ぜひご覧ください」と案内されたのは「核兵器廃絶を目指して 被爆70年を前にヒロシマの真実を語る」という講演会だった。
(ヒロシマの真実か…)
最近インターネットでも、本や雑誌でも、「○○の真実」と題した文章を見かけるが、はっきり言って真実とは程遠い、中身のない下劣な物が多い。真実という題名は皮肉で付けているのだろうか。
(まさか在特会だの、チャンネル桜関係じゃないだろうな…)
懸念しつつ講演者紹介を見ると、広島で被爆体験した方だった。
(当事者が来たのか…)
講演者は映像作家の田邊雅章さん。
日本政府の非核特使を務めた方で、ドイツやアメリカ、エジプト、クウェートなど各国を訪問し、ヒロシマで実際に被爆した当事者として講演をし続けてきたという。
今回の講演では、田邊さんが作ったCG映像をメインに当時の記録映像、被爆された方たちの体験談等で構成された、「ヒロシマからの伝言 ~原爆で失ったもの~」が上映された。
「原爆が投下される前の街から、失われたものが何かを知ってほしい。」という思いから作られたもので、国連でも上映され、2年後のNPT(核兵器廃止条約)の場での上映も決まったそうだ。
被爆した方の手で、被爆前の街並みを再現した映像というのは例がなく、各国で注目されている。
さて、映像でどんなことを知ることになるのだろう?
目に映ったのは、原爆を浴びる前の美しいドームを中心にした、古都だった。
(え!川床がある!?)
CGの街並みから、当時の映像へ。
京都の風景でしか見たことがない川床が、広島の川にあった。
聞けば、京都文化の影響を強く受けていたらしい。
しかも川が賑やか。
2階建てのお屋敷のような屋形船まである。
水上交通がかなり発達していて、まるで運河の街だ。
川と共に発展した街。こんな街が広島にあったのか。
通りには美しい日本髪の女性たち。祭り囃子。
貴重な当時の映像は、白黒なのに色鮮やかな風景を見ているようだ。
CGで、ちょっと高い建物から見たような視点の、街並みが映った。
洋風建築の産業奨励館のドーム(今は原爆ドーム)がポコンと頭一つ出ていて、なだらかで大きなお寺の屋根が見えて、瓦屋根の家がぎっしり並んで…。
京都や奈良、金沢のような日本の古都の風景だった。
音は何もない。人影もない。
でも、美味しそうなご飯を作っている台所の音、「太郎ちゃんごはんよー」とお寺の境内で遊ぶ子供を呼ぶ声、お店の賑わい…たくさんの人の、生活の息遣いが聞こえる街がそこにあった。
なんでもこの辺りは有数の繁華街で、たくさんの人が住み、外からもたくさん人が来る街だったそうだ。
街並みだけではなく、お店の中もCGや、一部はドールハウスで忠実に再現されていて、どんな環境だったのか非常によく分かる。
(人通りもCGで再現できそうだけど…)
繁盛しただろうと感じるお店ばかりが並ぶのに、人の往来が入っていないことに違和感があった。
訳は帰宅してから知った。
人通りがなかったのは、入れられなかったから。
意図的に「描かない」のではなくて「描けなかった」から。
「あまりにも辛くて」、思い出すだけで辛くて描けなかったから。
田邊さんの悲しみの深さに愕然とすると同時に、この深さの理由はなんだろうと思った。
これまで、被爆した方のお話は、本や映像、絵画、劇などあらゆる手段で見てきた。
でも、田邊さんの悲しみの深さはその誰よりも深い。
なぜそこまで深い悲しみが?
映像が今の広島に切り替わり、理由が分かった。
映像の中の田邊さんが立つ場所は、原爆ドームの隣。
ドームの東隣に、ご実家があったのだ。
CGで再現された街に、実際住んでいた方だったのだ。
そして、お母様と1歳だった弟さんは今も行方が分からない。
田邊さんご自身はその時疎開していて、町に戻ったのは原爆投下の2日後。
CGで原爆投下から投下後の街並みも再現されていたが、「あの時の光景、におい、手に触れたもの、忘れることはできません。」とおっしゃっていた。
映像はまた切り替わり、爆心地にいた方や、家族を探すために疎開先から戻ってきた方が、その時の光景を絵にしたものが紹介された。
つい先月、はだしのゲンについて賛否両論が激しく飛び交ったが、被爆した方が描いた光景ははだしのゲンよりももっともっと過酷で、ゲンの作者の方が「ゲンはやさしく描いた」とおっしゃった意味がよくよく分かった。
子供には見せられないと言うが、あの時現場を見せられた子供たちは、すぐ側にいるのに。
映像の中で、それまで淡々と静かに当時の事を話していた方達がみんな、原爆直後の話になると目を赤くし、ハンカチで溢れる涙をぬぐっていた。
「戦争は終わったと言われると悲しい。くやしい。」
あの日の子供たちの心はまだ、爆心地の中にいる。
映像は今の整然とした広島の街並みで締め括られたが、そこには古都も、200年以上続いてきた文化も、影さえ存在していなかった。
"ヒロシマ"になる前は ~講演編~
約40分の映像だと言うが、もっともっと長い時間見ていた気がする。
映像の後は田邊雅章さんご本人による講演だ。
8歳だった田邊さんは疎開していて原爆投下の日は広島にいなかったが、2日後に家族の安否確認で広島に入り、焼け跡の街で3日間過ごしたため、放射性物質を全身に浴びて「入市被爆者」となってしまった。
「跡形もなくガレキの山となり、焼け跡の熱が残る地面には、産業奨励館で働いていた人々の身体の一部が散乱していました。そこで見たものや、触ったもの、あの時のなんとも言えないにおいは今でも忘れることができません。」
8歳の少年が見せられたもの、感じさせられたものの中身に、言葉もなかった。
お母様と弟さんの行方はいくら探しても分からず、実家もなくなり、被爆したおばあ様と2人だけに。
そのおばあ様も被爆と生活苦で9年後に亡くなって、17歳で完全に天涯孤独になってしまった。
「原爆で私は、家も家族も財産も、何もかも失いました。結婚や就職などありとあらゆる機会で起きる被爆者への差別もたくさんありました。怒り、憎しみ、悲しみ、辛さ、それらから逃げるように、原爆に背を向けました。」
転機は還暦に訪れた。
「ヒロシマ、ナガサキの地名も、原爆が投下されたことも外国の人は知っているが、そこに普通の人が生活し、文化があったことは知られていないことに愕然としました。」
この講演では語られなかったが、他で見つけた講演の様子では、「アメリカ人記者が平和記念公園を見て、投下場所が公園だったから被害が少なくてよかった。」と言ったことや、田邊さんのご実家があった場所で女子高生がピースして記念写真を撮っていたことが語られていた。
「原爆炸裂の下には、伝統的な町並みがあり、普通の市民生活があり、多くの一般市民が、逃げるいとまもなく『何が起こったのか判らないまま』無惨にも犠牲になった事実がある。」
田邊さんは300人を超える被爆者に聞き取り調査をし、映像を作り、講演でヒロシマの一般市民の事実を伝える活動を始めた。
自身の命をかけた、文字通りの"LIFE WORK"として。
被爆者の方の中には、口を固く閉ざして何を聞かれても答えない方もいる。
でも同じ被爆者の田邊さんになら話をしてもいいと、話をして下さった方も多いそうで、300人を超える聞き取り調査で、田邊さんの依頼を断った人は誰もいないそうだ。
この聞き取り調査から分かった一つのエピソードを教えて頂いた。
それは、どこにでもいた父と娘の話。
お父さんと娘さんの2人暮らしで、原爆の日の朝は娘さんが高熱を出して寝込んでいた。
お父さんは爆心地近くの自宅から2km離れた工場へ働きに。
娘さんは薬が見つからなかったため、工場に行ったお父さんに電話をして薬の場所を聞いている時、原爆が落とされた。
電話は切れ、お父さんは自宅に戻ろうとしたものの、炎が凄まじく、辺りも5000度の熱が冷めず近寄れない。
火が治まるのを待って翌朝自宅に向かうと、自宅どころか見渡す限り瓦礫ばかり。
その中で、自宅があった場所で見つけたのは、何か白いもの。
それは、受話器を握った手の白骨。
昨日、薬の場所を聞いてきた娘さんの手だった。
自宅は瓦礫になり、娘は受話器を握った白骨の手だけになる。
お父さんは、この世のものとは思えない残酷な現実を誰にも話さないまま亡くなった。
そのお父さんの弟さんが話を聞いていたため、田邊さんにお話されたそうだ。
8歳の田邊さんご自身も、お母様と弟さんを探す中で忘れられない光景があるという。
それは被爆した人達を担ぎ込んだ収容所で見た二組の母子。
一組は左半身が真っ黒になった赤ちゃんを抱いて子守唄を口ずさんであやしていたお母さん。
もう一組は、片半身は焦げ、首がガックリ折れたお母さんの残された片方のおっぱいを無心に吸う赤ちゃん。
もしかしたら自分の母と弟も同じことになっているかも知れないと、この二組の母子が強く印象に残ったそうだ。
田邊さんは平和記念公園で行われている慰霊祭には一度も出ていない。
市長が世界に発信する談話の草案を作る委員の1人なのに。
「あの敷地は、1メートルかさ上げされています。あまりに被害がひどすぎて、公園にするしかなかったのです。70センチメートル掘ると、瓦礫が出てきます。わずか1メートル下には、原爆で壊された建物や、あの時、あの場所で亡くなった人達5000人以上がそのまま埋められているのです!
広島はその人達の上で毎年、慰霊の式典を行っているのです。亡くなった人達がそのまま埋められてしまった場所を、大勢の人が踏みつけて…。私にはできません。だから私はあの式典には行きません。
私ぐらいは、静かに亡くなった人を弔ってもいいのではと思っています。お願いです。平和記念公園に行ったなら、歩く時はそっとそっと歩いてください。あの下には、5000人以上の人が眠っているのです。」
なんと。
驚愕の真実だった。
平和記念公園の土壌のそんな話、聞いたことない。
かさ上げしたなんて知らない。
亡くなった人を、瓦礫といっしょくたにしてそのまま埋めたの?
家族に抱きかかえてもらうこともなくて、お墓に入るどころか、原爆で壊された家と一緒にそのまま埋められて。
しかもたった1メートル?
もし掘ったら、当時の状態がそのまま、たやすく出てくる?
コンクリートやタイルで整備した土台がそれ?
その上で平和記念式典?
行方不明の人や、遺骨も見つからない人がたくさんいるけど、探してもらえないまま、式典会場の下にいるの?
ちょっと待て。
いやいや、いろいろおかしいだろ。
もうどこから何を突っ込んだらいいか分からない。
こんな残酷な仕打ちがあるか?
おかしい。
おかしい。
おかしすぎる。
爆心地近くは原爆の熱で人体が骨さえも残らなかったと聞いていたが、田邊さんはもう1つ衝撃の事実を教えてくれた。
「広島では工事をする時、業者はその土地に原爆で亡くなった方の遺骨がないか調べます。『調べた結果、遺骨はありませんでした』という報告が上がると、『ああ良かった』と工事に取りかかります。
でもそれはウソです!骨なんてある訳ないんです!原爆の温度は5000度です。溶鉱炉や陶器の窯の温度が1000度です。5000度では人間の骨は原型を留めることができずに、パウダー状になります。市内の土地を断面にしてみると、ところどころに白くなっているところがあります。それが亡くなった人達の骨なんです!」
もう天を仰ぐしかなかった。
広島がそんな状態だったなんて。
映像に出ていた方が、戦争は終わっていないと言った意味。
確かに終わっていない。終わるわけがない。
原爆で家族を失った原爆孤児の子供たちにも、また残酷な話がある。
原爆孤児から「原爆孤老」になった人達がたくさんいるそうだ。
被爆者だからと社会から差別されて、家族を持つこともできないまま、孤児の時のまま時間だけが過ぎて老人になる。
田邊さんがその中の1人に、
「生きてきて幸せだと思ったことある?」
と聞いたら、
「何もない。これまで生きてきて良かったことなんて何もない。なんで生きているんだろう。」
という答えが返ってきたそうだ。
やりきれなかった。
家も、家族も、財産も、友達も、自分の健康も、ある日突然、全部根こそぎ奪い取られて。
なんとか命が助かって、戦闘機が飛ばなくなった、爆弾が降ってこなくなったと思ったら、今度は被爆したからと差別されて、関わりを拒絶され、心を殺される。
なんだこれ?
同じ国で、何も悪いことしていないのに、なんでこんな理不尽な目に合わなくちゃいけない?
田邊さんは講演の最後におっしゃった。
「忘れないでください。必ず自分の事に置き換えて考えてみてください。そして発信してください。」
この3つどれが欠けてもダメ。一般市民の声を訴え続けている田邊さんの叫びだった。
(以上です)